上田昌文
●個人と社会の接点で
出生前診断という「命の選別」のための技術は、個人と社会の接点で生じるきわどい問題を提起します。それは、個々の親が持つ“健やかな子に育ってほしい”という至極当然な思い(ミクロの願望)が、“望ましくないものを排除する”技術が出現したことで、どんな価値観に組する社会を選ぶのかという大きな方向付け(マクロの選択)の矢面に立たされてしまうからです。ある医療従事者の会合で耳にしたという次のような発言は、そうした選択を前にした者の悩みを浮き彫りにしていると思えます。
「私は長年ダウン症の子どもと保健所で関わってきて、本当にかわいく、素直で、すてきな子どもだなと常日頃思っていたんです。でも正直に言いますが、私の姪が出産するときになって、障害児が生まれませんように、と強く祈っている自分に気がつきました」(坂井律子『ルポルタージュ 出生前診断』NHK出版,1999年,p269)
この発言をした人は、では姪っ子さんに出生前診断を受けることを勧めるでしょうか。その結果「陽性」と出た場合、この姪っ子さんは中絶を選ぶのでしょうか。「命の選別」の是非について議論を進めるためには、何重にも絡まっている問題の構成要素を解きほぐし、その一つ一つに慎重な判断を下さなければなりませんが、ここでは「障害」という概念自体の危うさと、技術が普及することで私たちの生き方が変質してくることの危うさに焦点をあてて考えてみます。
●障害という概念の危うさ
ケアや福祉の取り組みにおいて「障害」をどうとらえるかは重要な問題ですが、この概念を用いる際にいくつも留意しなければならない点があり、そのことを抜きにして出生前診断の是非を問うことはできません。
第一に、たとえば「病」に比べると、「障害」は社会によって作られたという性格がずっと強い概念であること。つまり、社会が何を不都合とみなすかによって何が“障害”であるかが決まってしまう、という面が大きいのです。障害者へのケアがかかえる構造的矛盾とでも言うべきものも、この点にかかわります。社会制度上は「障害者」をできるだけ明確に規定することでケアの十全を期することができるわけですが、逆に「障害者」と「健常者」の線引きが強まると、線引きが緩やかであってこそ維持されるだろう共生的側面が失われがちになります。高齢社会では“誰もがなんらかの障害者”とでも言うべき事態を迎えることになりますから、「障害」なる概念を「健常」と線引きして用いることには、いろいろな無理が伴うでしょう。
第二に、「障害=不幸」という短絡的なイメージに引きずられることが多いという点。たとえば出生前診断を扱う医療関係者でさえ、ダウン症の子どもたちとその親たちがどんなふうに暮らしているのかを知っている人は多くないように見受けられます。「障害」を持っていてもごく普通に暮らしているケースはいくらでもあります。また障害といっても実に様々な場合があり、しかも障害がそれを持つ人のすべての面を規定しているわけではありません。障害を持つ人は、心身の機能不全状態そのものよりも、周囲の目やあまりに「健常者」向けに出来上がっている生活環境と自分との相容れなさに苦しむことが多いのです。極論するなら、私たちは、社会の側が築いてしまっているそうした障壁やつれなさこそが「障害」に他ならない、と認識すべきなのではないでしょうか。
第三に、漠然とではあるが“人並み”にこだわってしまう私たちの意識の問題。私たちの心の中にはどこかしら「人並みに生きることが幸せの最低ラインだ」という思いがあって、その“人並み”からの脱落をもたらしそうになる心と身体の差し障りを「障害」と名づけて、そこからの距離で自分の幸せを計ろうとする傾向があるようです。何が“人並み”であるのか、本来人それぞれに思いは違っているはずなのに、いったん科学の言葉で「正常」と「異常」が区分けされると、どうしても自分を「正常」の側に留めておきたいという気持ちに人々は追い込まれてしまうのです。この“脱落の恐れ”を克服するのはなかなかむずかしいことです。実際には障害や困難や苦しみを経験することで人生の幅広い見方やたくましく深い生き方を体得していくという側面があることを、私たちは忘れるべきではありません。
●治療なき診断が導くもの
出生前になされる診断は、事前に把握できる障害や疾病の治療、そして出生後のケアと結びついてこそ、本来の診断として役割を果たすはずです(例えば副腎性器症候群や胎児不整脈などの胎児期の治療、胎児の状態の観察による分娩方法の決定)。しかし、現行の出生前診断は、診断はするものの治療を伴わないこと、そして結果的に多くの場合に中絶という選択を誘導する点で、非常に特異的です。
診断を受けるか否か、そしてその結果を知って中絶するか否かは本人の「自己決定」に委ねるとしながらも、結局この技術は、いくつかの障害や疾病の発生を確率的に予期しうることだけを理由に、生成の途上にあった個体の生命を断ち切ることへ暗黙の了解を与えるものとなっています。「障害をもつ子どもはもたない」という “安全パイ”の選択の裏に張り付いているのは、言ってみれば「“保証書付き”の子どもが欲しい」という、下手をするといくらでも膨れ上がりかねない親の側の欲望です。
●出生前診断が普及する背景
以上のような危うさがあるにもかかわらず、この技術が普及し受け入れられるのは、次のような背景があるからでしょう。
妊婦自身がなんとなく体感して判断するほかなかった胎児の様子が、この先の病気や障害のことも含めて“わかる”ようになったことで、かえって“不安”(あるいは“安心”を求める気持ち)が強くなるように思われます。出生数が減りつづけ、晩婚と高齢出産が常態化すると、それこそ身を賭して出産するたった一人の子どもにかける期待はいやが上にも高まり、「障害があってはならない」という気持ちが強まるでしょう。
改善されてきているとはいえ、障害者やその周りの家族らが背負う苦労や負担は依然として大きいですし、子どもを取り巻く環境は、有害物質の汚染の問題をはじめ、ますます悪化しているように思われます。マクロの状況が変えがたいものに思えれば思えるほど、ミクロでなしえることへの依存度が高まるのも無理はない、という一面も確かにあります。
●「子どもを選ぶこと」を選ぶ――その行く末は
それにしても皮肉なのは、障害を持つ人々の人権の保障と福祉の充実が謳われながら、その一方で「障害者が生まれないようにする」技術がじわじわと社会に浸透していることです。これは明らかにダブルスタンダートなのですが、英国のようにこのダブルスタンダードを社会政策として組み込んでいる国もあります(1970年代から公衆衛生の一部として出生前診断が導入され、費用を政府が負担することにより「マス・スクリーニング」が実現しました。その結果、障害児の誕生は極端に減少し、政府支出に含まれる障害者年金等のコスト削減に貢献したと評価されているのです)。しかし、障害児の数が減れば減るほど、今生きている障害者や(親が「選ばないこと」を選んで)障害を持って生まれてきた人が、サービスの低下や差別・偏見、さまざまな不利益にますますさらされていくことになるのは明白です。
障害者へのケアにおいて重視されてきたのは「ノーマライゼーション」の思想ですが、そこでは身体的・精神的な障害はバリアではなく、むしろバリアを築いているのは社会の側であるとの認識が基本になります。ところが、出生前診断のような技術が出現して、私たちは再び、障害や病気はバリアそのものである、という認識に逆戻りしてしまっていると言えそうです。
これらの矛盾を解決している国はどこもありません。誰もが納得する解決を見出すことは難しいものの、このような技術がこれからも次々と開発され普及するようになれば、私たちの生き方はどう変わってしまうのか−−その行く末を思い描く想像力だけは失いたくないものです。■
(『家族ケア』2003年10月号所収)
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