上田昌文
●ケア、子育て、教育
教育という行為はケアの一面を持っています。「子育て」「教育」「ケア」という3つの概念の関係を考えてみると、「子育て」が親のケアなしにはまったく生きていけない赤ちゃんという存在にヒト個体としての最低限の基本的な生活能力を身に付けさせるものであり、「教育」は「子育て」を受けた(受けている)というの基盤の上に立って、大人になって社会で暮らしていくための知識や技能や人間関係の築き方(社会のルールなど)を学習させるものだと言えるでしょう。
「子育て」ではケアは一方的ですが、「教育」では教える者が教えられる者に「ケア」を施すという面とともに、そのことを通して「他人へのケア」「自分へのケア」――この場合は“ケア”というより“配慮”というべきかもしれません――を内在化させるという面が大きな意味を持ってきます。“(他から)気遣われている自分”を自覚することで “自分を気遣う”“他を気遣う”ことのできる自分へと成長する、その促しが教育になくてはならないこと――教育とケアの関係を考えると、この観点が浮上してくるのです。
●自分へのケア、他人へのケア
しかしここで私が述べた、“自分へのケア”“他へのケア”とは何を意味するのでしょうか? 教育の目的として誰にも異論のないものの一つは、“一人前の人間に育てること”でしょうけれど、では何が“一人前”かと問われれば、たいていの人が返答に窮してしまいます。しかし答を言葉で述べることはできなくても、それぞれなりに感覚的に把握している“一人前”の何かしらのイメージがあるものです。そのイメージは多様でしょうが、比較的無理なく多くの人に受け入れてもらえるのは、「少しでもよりよい世界を作り出す方向で、社会への参画の道を自分で開き、実際に自分の力を役立てることができる」といったイメージでしょうか。“自分へのケア”と“他人へのケア”は交錯する1点を持っていて、それが社会参画を通した自己実現だろうと私は考えています。
では、人としてのまっとうさの感覚やイメージ、「よりよい世界はどうしたら作れるのか」という志向性(その意欲や探究心)は教育の場で息づいていなければならないと思えるのですが、現実はどうでしょう?
●学校教育の隠された目的
現実には学校教育は、目的に関する共通の了解の中身を改めて問うことをしないまま、あたかも皆が共通の了解を持っているかのごとくみなされるが故に、誰もが受け入れるべき一つの制度として機能しています。それが果たしている機能とは、端的に言うと、現代の産業社会に適した人間の行動様式と心性を一人一人に“埋め込む”ことです。学校は算数、理科、英語……を学ぶ場である、というのは表面的な理解で、じつはその学びの強制を通して「学校で教わることを学ばないと、ダメな人間になるのだよ」という脅迫的メッセージを隠し持ちつつ、現行の社会システムへの順応を準備させるのです。
例えばここで「どうして高校で理科を教えなければならないのか」を考えてみましょう(もちろん、理科以外の科目でも似たような話が展開できます)。おおよその理由は次のようになるでしょうか。
(1)大学入試に出るから
(2)理科系の学問を専攻する際の基礎知識であるから
(3)自然現象を理解するための基本的な知識・方法を学ぶ必要があるから
(4)問題を解くことは知的な訓練として有益だから
(1)は理由というより、学ぶことを強いる圧力そのものです。高校生が大学に行こうと思うわけは、行った方が社会で有利だと認められるからです。我々の社会では学歴が職業的資格や地位をかなりの程度まで保証します。教育が近代産業社会の構造を維持するための競争と選別の機能を担っていることは、ここによく現れています。
(2)は学問の構成に沿った論理であり、学問の専攻を希望しない者には理由になりません。まんべんなく学習する理科が、誰にとってもより高度な科学を学ぶ際の基礎になるという保証はどこにあるのでしょうか。「将来役立つから」と言って興味も抱けないまま教え込まれる場合に、“役立つ”どころか理科嫌いや理科離れを生みすだろうことは容易に想像できます。
実利を離れているように思える(3)の理由も、学習の強制を正当化することはできないでしょう。個人がどんな経緯で自然への認識を深めるかを、教育がカリキュラムとして予め設定することはかなり困難です。
(4)についても、知的な訓練が個人の内的欲求と無関係に成立し推し進めることができるものだという考え方自体を問題視しなければなりません。知性とは「自分で考えたい(あるいは考える必要があると思える)問題を自分で考え抜く」のが本来のあり方であり、強制され誘導される知的訓練は、どこかで自分なりに意義や意味を見出し得る問題を発見するのを阻害するのではないか、と想像できます。
●教育がもたらす内面の分裂
以上のような理屈を述べたからといって、私は「理科を教えてはならない」と言いたいのではありません。私は、学校制度で皆が教育されてきたが故にほとんど無条件で皆が信じるようになってしまっている教育のいくつもの“神話”を、一つ一つ引き剥がしていかない限り、私たちの社会が抱えてしまっている大きな矛盾――物質的な豊かさを目指して奔走しながら、自分の心も周りの自然も将来の世代の生命をもますます危機に追いやっていくような生き方――を乗り越えることはできないだろう、と感じています。「もっとたくさんのことを学ばなければならない」……教育は常に私たちをそう説き伏せようとします。しかし、私たちが教育すべきことがらとして取り込んでいるものに、強制して教える必要のあるものはほとんどない、というのが私の意見なのです。
教育は人々に「こうありたい」「こうしたい」という気持ちを自ら抑圧し、「こうした方が周りから自分がよいと思われる」という外部の既存の規範に従う精神を植え付ける――こうした面があることは否定できません。多くの人は、自己の内面のこうした分裂の中で、他者や自然との深い交わりが停滞を余儀なくされている、というのが私たちの置かれている現状ではないでしょうか。
●突破口はどこにあるか
では突破口となる基本の考え方は? 次の3点を手がかりにしてみましょう。
第一、無人格的な“完成された知”を規範にしないこと。
私たちはもっと、体験に根ざしその人なりの必要性と興味に応じて形成される知を尊重しなければなりません。それは言ってみれば、自分の身体のことを一番知っているのは自分であり医者ではない、と考えることです。自分の身体の変化を自分なりに観察して推理を重ねながら病や不調に処していく――これこそが科学的な態度であり、専門家である医者にお任せするのは決して科学的ではないのです。この点はいくら強調しても足りないくらいです。最良の医師とは、患者との密接な関係を通じて、患者自身が考える意味での“健康”の状態に近づけるように、患者をサポートする人です。医師は患者を理解し患者から学ぶことによって患者を治療できるのです。健康とか治療というのものは、患者個人を離れて一律な抽象的な状態として定義できるものでは決してないのです。あるいはそれは、試験で満点を取ることを目標に置かないという態度です。その試験がほんとうに自分に必要であるかどうかを判断できることのほうが大切だと考えることです。
第二、いかなる場合も学ぶことを強制しないこと。
人は何のために学ぶのか。詰まるところそれは、より深く自分の現実と触れ合うためです。世界の成り立ち、ものの仕組み、自己と他者のつながり……こうしたことへ認識を深めることが自分にとって現実の新しい局面の発見につながるからこそ、私たちは学び続けようとするのです。たとえば「地理」で農業についていくら詳しい知識を覚えても、それが自分が日々口にしている食べ物の由来を想像するような力に結びつかなければ、生きた現実と触れ合うことにはなりません。逆に現実の事態に接して自分にとってのその“意味深さ”が触発されさえすれば、何が自分にとっての必要な知識であるかは、探求の途上で自ずから決まってくるのです。私たちは“カリキュラム”の思想を大きく見直さなければなりません。
第三、他者を教育によって変えようとしないこと。
これは教育につきものの権力のあり方を問うものです。自ら変わることが結果的に他者が変わることを促すかもしれませんが、自らは変わらずして他者を変えようとすることは権力の行使なくしては成り立ちません。勉強しない親が「勉強しなさい」と子どもに言うことは、親が権力を振るっているという事実を子ども教えるだけで、子どもを勉強に向かわせるものではないのです。■
(『家族ケア』2004年3月号所収)
版はこちら