ケアと科学の狭間で 第9回 教育という謎(その2)あなたにとっての理想の教育とは?

上田昌文

●根本から考えることはできるのか

自分が受けてきた教育や自分の子供が受けている教育をとおして、多くの人が教育、ことに学校教育に対して、じつに様々な疑問や不満を抱いています。「教育を変えなければならない」という言葉はいたるところで耳にします。「教育を変えれば社会が変わる」――確かにそのとおりですが、しかし下手をすれば、ここから教育に対する過剰な期待(とその裏返しとしての不満)、子供を“教え込むべき対象”と安易に規定する偏った見方、そして「社会を変える」ための自分の役割を棚上げて「教育が悪いから」と決め付ける他人任せの姿勢などが生まれてきます。

現実には、不況の中で教育が相対的にますます金のかかるものになってきていて、高所得の階層の子どもたちが高学歴を得る割合がいよいよ高まっています。高学歴は人格の立派さやなし得る仕事の有意義さの保証にはまったくならないと誰もが心に思っていても、“教育の荒廃”が喧伝されればされるほど、安心ためのパスポートとして「ちょっとでもよい学校へ」という思いは強まるのです。個々の親がわが子の教育へ注ぐ思いとお金はいや増すばかりなのに、学校任せでなく改めて教育を根本から見直そうとする機運はかえって失われていくように思われます。学校にしてみれば、文部科学省からの“お達し”と保護者たちからの突き上げ、そして何か“事件”が起きるとつついてくるだろうマスコミにも包囲されて、先生たちはひと時も気が休まらないことでしょう。

●教育神話へ疑問を投げかける

私自身は、私たちが抱いている根深い「教育神話」をどう掘り崩していけるだろうかを考え続けています。私がこれまでにたまたま接することになった幾人かの子どもたちとのやりとりや、現在取り組んでいる市民による学習・調査研究活動をとおして、現在の社会で本当に必要とされる学びとは何かという問題をいつも突きつけられている、と言えるかもしれません。そうした立場からすれば、私たちが頭の中で幾重にもまとってしまっている教育に対する思い込みを取り払うことが先決だろうと思えるのです。

例えば次のような疑問にあなたはどういう答を用意しますか?

クルマの免許を持たない人がいて当たり前であるように、大学を出ていない(中卒あるいは高卒である)人がいて当たり前だと思うのですが、後者の人々が肩身の狭い思いをしなければならないのはどうしてでしょう? 同じ年齢の者が一同に会して、全国津々浦々同じ内容を同じ進度で学ぶ必要はどこにあるのでしょう? 「個性を育てる」といいながら、画一的な評価基準を用いていつも他人と比較するように仕向けるのはなぜでしょう?(私には、たとえば「歌うこと」「絵を描くこと」の出来不出来を測ろうとすること自体がナンセンスであるとしか思えないのですが。)「学校にたて突くような個性は容認しない」ことが前提になっていますが、これで本当に個性が育つのでしょうか?(「他人といかに違った生き方ができるか」がほんとうの個性だと思いますが、学校や親はそれをどこまで容認できるのでしょうか?)「試験は受けたい人だけが受けたい時に受ける」という具合にどうしてできないのでしょうか?…

●理想の教室、理想の授業を探る

私が提案したいのは、教育制度を一度に変えることはむずかしいとしても、個々の教育現場において、(上からの改革でない自分からの)思い切った具体的な新しい試みによって、これまで依拠してきた価値観からの縛りを脱し、たとえば前回に述べたような自分なりに納得のいく原則や方法を確立していくことです。数年前に「物理教育はどうあるべきか」を問われて書いた文章の中で、私は最後に“自分なりの理想の授業”を次のように描いてみました。

「自由選択である『物理』の時間に集まった生徒十数人(20人を超えたらもう授業にならない)。年度の初めに各々『自然(物理現象)についての10の疑問』を提出。5つは自分で考えたもの、残りの5つは教師が用意したものから選ぶ。その疑問を各自が調べて授業毎に中間発表(グループでもよい)。教師と聞き手の生徒は発表内容を徹底的に批判し、議論する。もし全員の関心が原理的な問題に収斂したら、教師が多少の“物理の講義”を展開してもよいが、教師は原則としてアドバイス(どんな書物やビデオをみればいいか……等々)と励まし(「この数式の成り立ちを根気強く追ってみよう」……)に徹する。実験も可能な限り生徒自身にデザインさせる。年度末に『10の疑問』のうちのlつについて最終発表。レポートにまとめてもいいだろう。試験はしない(希望する生徒にだけ課す)。高度な内容に関心を抱く生徒には、いろいろな本格的な書物を紹介すればいい。大学入試向けの特別な勉強はいらない(先のレポートなどが重要な判定材料になる)。入試は一年を通して毎日数人ずつ面接・問答しながら決めるのが原則で、筆記試験を希望する者はそれを受けてその成績を判定資料の一つとして提出してもよい……。」

まず、あなたなりの“理想の授業”を思い浮かべ、そこから教育に対する自分の認識の点検を始めてみてほしいのです。

●知的な事柄を教えることの意味
 
私が今の述べた理想プランにはいくつかのポイントがあります。

第一は、「知的な事柄を教えたと言えるのは、教えられる側にその事柄への知的な関心が生まれた場合に限ってである」という点です。“嫌い”になってしまっては元も子もないのです。学校には行きたくないという気を子供に起こさせる学校は、どんなに言い繕ってもその子にとって教育は失敗であり、おもしろい楽しいと感じさせない授業は、無益であるばかりか、知的な関心が育まれる機会を奪うという意味で有害です。知的な活力を持たせることが目標であるならば、「できる/できない」という他者との能力比較を前提にした評価にこだわるべきではなく、「どれだけ興味をもって喰いついてもらえたか」という教える側自体の評価こそ重視すべきでしょう。そして言うまでもないことですが、“知的な活力”は“前向きに生きること”の一部に過ぎませんから、評価を下されることで前向きに生きる元気がそがれてしまっては話にならないのです。「数学ができること」より大切なのは「数学なんかできなくても元気に生きていけること」でなければならないのです。

第二は、「体系的知識をバランスよく万遍なく全員に教えるなどという無謀な努力はしない」ことです。どんな断片的な事柄もそれを深めることで全体との関連がいずれ浮かび上がってきます。一人一人は興味のありどころは違うという当たり前の事実に配慮しつつ、今目の前にいる生徒・学生を、「知ること」と「体験すること」をどう上手に組み合わせることで知的な世界への入口に導けるか――これこそが知的世界の水先案内人としての教師の腕の見せ所でしょう。カリキュラムの考え方に則して作られている教科書を手本としているようでは、この役割は担えません。

●問題発見と解決の場に居合わせる
 
第三は、「“正解提示・解法理解型”から“問題発見・解決の自己選択型”“へ重点をシフトする」という点です。正解のある問題を設定しその解法パターンへに習熟するというのは、一面的な知の発動であり、そもそもその問題を解く意義が予め理解されねばならないはずです。より大切なのは、様々な状況のなかでどうやって問題を切り出してきて言葉に置き換えるか、どのような問いを作り解決の糸口を探ってみることができるか、という知の働かせ方です。「解を求めること」が、紙の上で正解を出して先生にマルをもらうことに留まってしまってはいけないのです。「解を求めること」は、自己の選択で何らかの対策を立て、行動し、結果を吟味する、という主体性を投影した行為であるべきで、その行為をとおして充実感を感じ取れるようにすべきなのです。

第四は、「教室と学校という場を“子どもが大人と交流する知の広場”に変える」ことです。教室とか学校とかの物理的スペースを生徒と先生だけがいる場所だと、あまり固定して考えないでほしいのです。いろんな制約があることはわかりますが、でもやはりその壁に穴を開けていくようなことをしなければ、教える側も教えられる側も息苦しい状態が続くでしょう。目の前にいる子供たちに即して、そして目の前にある自然の姿や社会の現実に即して知識を再編し演出することを大胆に試みて欲しいのです。そしてこのことは、学校が学校以外の場の専門家や地域の職人さん、NPOなどの専門スタッフなどともっと自由に交流できるということを確保しないと実現が難しいのです。以前放送されたNHKの「ようこそ先輩」や「未来の教室」や「未来派宣言」の迫力はこの交流の力を示しています。外部の人々とのネットワークをうまく作り、子どもたちに出会いの場を提供するのも先生の大事な仕事です。地域の大人たちは地域の様々な問題に直面していて、それを解決するための様々な知のニーズを持っています。そのニーズに応じていろいろな場でいろいろな学びが展開されるのなら、その学びの場に子供たちを居合わせ、そこでの学びを子供たちの知の体験に接続するような工夫があってもいいではありませんか。学校を拠点にして地域の大人と子どもが密に対話し交流する機会を、私は夢見ています。■

(『家族ケア』2004年4月号所収)

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