TALKING SCIENCE: 第9回 「対話」の意味

岡橋毅
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「私の自由は他者の自由が始まるところで終わるわけではない。そうではなく、他者の存在こそが、自由であることの必要条件なのだ。」(ジャン=リュック・ナンシー)

 前回はファシリテーターの役割について考えましたが、今回はそもそも「対話」や「話をする」ことにどれだけの意味があるのか、どのような可能性があるのかということについて考えてみます。この連載では「対話イベント」について様々な角度から考えてきましたが、マス・コミュニケーション中心の現代において対話イベントにいかほどの威力があるのかというところは、正面から論じてこなかったと思います。むしろ、対話イベントというものをやるのは良いことだという前提があって、それからどのようにやったらうまくいくのか、どのようなポイントがおもしろいのか、どういった文化的な意義があるのかというところを考えてきたと言えます。また、「楽しい」ということが第一の対話イベントをわざわざ難しく考える必要はないのかもしれませんが、そういうことをあえてしてきたのがこの連載でした。

 ブレア首相が“Science Matters(科学は重要だ)”という演説で「対話(Dialogue)」という言葉を使っていたことを以前に述べましたが、科学技術に関係することだけではなく、「対話」は今や民主主義のお題目のように多用されています。スコットランドで行われたサミットのスピーチでも「対話」という言葉が何度も使われていました。たしかに、「国民との対話」や「対話型科学技術社会」を目指すことは、為政者や知識人が果たすべき責務だと思います。しかし、どれだけの「対話」が実現されているのかということは、支持率や投票率のように数字に表れてくるものでもありませんので、ほとんど問われていないといってもよいと思います。「対話」はまさにお題目になってしまっているのです。

 対話イベントを普通に考えるだけでも、参加者がだいたい50〜60人ぐらいですから、イベントにかける労力をより多くの読者を得ることのできる雑誌に割いたほうが、あるいはより多くの視聴者を得ることのできるテレビ番組の制作に割いたほうが、情報伝達の有効性は高いのではないかということもできます。少し考えればそうした欠点が見えてくるにもかかわらず、対話といえば良いといった風潮が政治の現場でも科学コミュニケーションの現場にもあるように思います。

 また、対話や討議をしながら民主的に物事を決定していくという民主主義のモデルは、現代において自明の正義とされてしまっているところがあります。理想化された「公共性」とでもいえるでしょうか。どんなに素晴らしいモデルでも、それが完全な正義となってしまうと、扱いづらくなってしまうのが世の常です。一種のエンターテイメントである対話イベントにケチをつけても仕方がないのですが、対話イベントの素晴らしさを喧伝するだけではなく、例えば、イベントに参加できる人は数が少ないこと、あるいはイベントに参加していても質問や意見を言うのはどうしても苦手だという人がいること、そもそも科学技術の話なんか聴きたくもないし面白いとも思わないという人もいること、対話イベントの存在をまったく知らない人もいることなどを意識してみると、また違った評価をすることができ、新しい議論と試みへの布石になるはずです。

 もちろん、対話の力、フェイス・トゥ・フェイスの対人コミュニケーションの力は、その潜在力も含めて多大なものがあると思います。科学カフェや各種のワークショップ、対話イベントなどを企画運営している人たちは、その力を深く信じているはずです。私も「対話力」のようなものを信じたいと思っています。しかし、そうした“対話支持者”のすべてが熱狂的に対話や直接的コミュニケーションを支持しているというわけではなく、「単に楽しいから」とか「気軽にできるから」といったリラックスした形で対話イベントを楽しんでいるだけの人もいます。この連載では何かと概念を中心に書いている部分が多くて恐縮なのですが、以下では「パフォーマンス」という考え方を参考にして、対話や対人コミュニケーションの意味づけを考えてみたいと思います。

 パフォーマンスという考え方があることは、ゴフマンの社会学を少しご紹介したときに触れました。しかし、ここでさらにつっこんだ形でご紹介したいのは、ゴフマンのような日常生活のメタファーとしてのパフォーマンスだけではなく、より明示的なパフォーマンス研究も含んだ「パフォーマンス」という考え方です。パフォーマンスという概念は「本質的に議論の尽きない概念」ですが(Carlson)、パフォーマンス研究は、演劇やダンスといった舞台芸術の研究から、文化的表象としての民族舞踊や身体の所作を研究するような人類学的な研究、そして人と人とのコミュニケーションをパフォーマンスとしてみるミクロ社会学的な研究まで幅広いものです。

 最近、高橋雄一郎氏が『身体化される知』というパフォーマンス研究についての本をまとめたばかりなのですが、そこで高橋氏は、ヴィクトール・ターナーと並び人類学的パフォーマンス研究の第一人者的存在であるコンカーグッドの主張をまとめながら、「彼は、過去の人類学が観察の対象としか考えてこなかったパフォーマンスを、研究の『対象』であると同時に『方法(調査の実践)』として捉えることを提言する」と述べています。コンカーグッドは、研究者が対象となることがらを客観的に距離をおいて観察・分類しようとすることをやめて、対象と同じ時間と場所を生きる、感覚ある人間として意識しながら対象にせまっていくことを主張している、と高橋氏はいいます。

 学問の世界が、そして科学者・研究者たちが社会との接点を求め、社会と関わっていこうという思いの表れとして対話イベントを考えると、パフォーマンス研究と響きあうところも多いのではないかと思われます。今のところ、対話イベントをしてもスピーカーである専門家の研究内容にまで影響を与えるものではないのですが、人類学者やパフォーマンス研究者が研究対象に対するのと同じように、多くの研究者が市民の前でしゃべることによって、彼ら彼女らたちの新たなアイデンティティ、研究分野に対する新しい認識を得ることができ、それ自体が研究の一部にすることができるのではないか、ということです。研究者が一般市民と語りあうことで、自らの研究の実践の糧にすることができるというのは、少し文学的な主張かもしれません。しかし、公衆の科学的理解(Public Understanding of Science)や科学への公衆参加(Public Engagement with Science)などを真面目に考えた場合に導き出されてもよい考え方なのではないでしょうか。案外、「市民と話し合っても何のたしにもならない」というのは、専門家がそう思い込んでいるだけなのかもしれません。イタリアの科学コミュニケーション研究者であるブッキが言うように、市民から研究者への方向の影響についての研究がほとんどされていないという事情もあるはずです(Bucchi)。

 「研究者よ書を捨てて、街に出よ!」となると、街に出たっきり帰ってこない研究者が研究者ではなくなってしまうという危険もありますが、研究者が社会の中でどう立ち回るかという技法は身につけなくてはいけなくなっているかもしれません。それは、あまり良い印象があるとはいえない劇場型政治との相似として考えることもできますが、より積極的な視点から考えれば、アカデミアが劇場型になることは、聴衆である市民が科学の営みに関わっていくことにつながり、研究者側にも社会のニーズを汲み取る力(行政のご機嫌を伺う力ではなく)が備わり、双方の自立、大学や研究機関の自立にもつながると考えることもできるはずです。しかし、今のところはそんなユートピア的筋書きに沿って物語りは進んでおらず、対話型イベントも研究広報の一環として捉えられているようにも思えます。しかし、市民参加や科学のガバナンス、そして科学技術とデモクラシーなどのテーマをつきつめて考えるならば、乗り越えていかなくてはならない問題でもあります。

 少なくとも、科学技術に関する対話イベントにはそうしたことを考えていくための種がいくつか埋まっているように思います。もし何かいつもとは違う方法で考えたり語り合ったりする場がほしいと思ったならば、対話イベントは手軽に試すことのできる手法です。対話イベントは、すべての参加者が何らかの形で関わり、自己を問いなおし、相手を理解しようとつとめ、自分なりの問題点とその解決方法を探っていくこのとできるところです。場所のセッティングに凝ったり、コーヒーやお酒が入るとさらにもっとおもしろくなるはずです。対話イベントはあまり大きな成果は生み出せないかもしれませんが、コミュニケーションの“肝”のようなものが含まれているので、はじめの一歩として考えればいいと思います。対話の可能性と現実、その狭間で迷い、迷うだけでなく動いてみること。研究者にとっても市民にとっても、対話イベントは、一歩進んだ楽しさと、あと一歩の物足りなさとが同居した不思議な空間なのです。

●ご報告
 2006年8月より、私は北海道大学科学技術コミュニケーター養成ユニットの学術研究員として働きはじめています。10月からは受講生のお手伝いをすることになります。単なる学生=傍観者だった自分が実際の現場でどれほど役に立てるかは不安なところもあるのですが、イギリスで学んできたこと、この連載で学んできたこと等々の経験を活かして、頑張っていきたいと思っています。

注:
Bucchi, M. 1998. Science and the media. Alternative routes in scientific      communication. London New York: Routledge.
Carlson, M. 2004. Performance :a critical introduction. London :Routledge.
高橋雄一郎『身体化される知:パフォーマンス研究』せりか書房、2005年

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