TALKING SCIENCE: 第6回 デモクラシーと専門性の相性

岡橋毅
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●アテネから現代へ

 「古代アテネの政治は、広場において市民が対話することで行われていました。それが、いまでいう「デモクラシー」の始まりなのです」というのは、よく引き合いにだされる話です。そして、科学について対話するというアイデアにも、このデモクラシーの根源的なイメージが少なからず影響しているのだと思われます。つまり、対話型イベントは、そして市民と対話するという広義の科学コミュニケーションは、科学を民主化するための場なのだという見方です。科学と市民を結ぶ試みとしては、近年、対話型イベントだけでなくコンセンサス会議やテクノロジー・アセスメント、サイエンス・ショップや市民陪審など、様々な試みがイギリスや、欧米諸国、日本でもなされはじめています。世界中で(とくに科学技術振興に力を入れている先進諸国において)科学コミュニケーション運動なるものが巻き起こっていると言えなくもありません。

 しかし、(繰り返しになりますが)いったい「科学コミュニケーション」って何なのでしょうか? ただ科学者と市民がコミュニケーションをとるだけのことなのでしょうか。市民社会にとってどうしても必要なものなのでしょうか。それとも、口当たりの良い、科学振興政策の一環なのでしょうか。自分で副題にしておいて言うのもなんですが、そもそも市民との対話って何なのでしょうか? 市民のニーズを聞き出すマーケット・リサーチ、あるいは反科学的な市民の反発を和らげるための手段なのでしょうか。確かに、科学コミュニケーション運動は、科学振興のロビー団体や科学者コミュニティが主導していることが多いですし、国の政策として(イギリスも日本も「科学技術立国」を掲げています)行われていることが多いので、科学コミュニケーション活動の動機や目的がどんなものであろうと、こうしたシニカルな疑いの目を向けることは可能です。それは、科学振興側が科学の利点ばかりを列挙し、科学懐疑派が科学の汚点ばかりを列挙して、永遠とやりあっている状況を見てみれば一目瞭然です。しかし、それでは親科学・反科学の二項対立から逃れられなくなってしまいます(最近でも、イギリスの新聞であるガーディアン紙上でこの対立を象徴するような論説が展開されていました )。

 そこで、今回は、科学コミュニケーションとは何か?科学と市民の対話とは何か?という問いについて、二項対立を越えたところで議論するための下地を提供するために、政治理論で最近流行の「討議デモクラシー」の特性と科学コミュニケーション活動を照らし合わせて考えてみたいと思います。前回までの事例紹介とはうって変わった内容になってしまいますが、お付き合い願います

●討議デモクラシー

 まずは討議デモクラシーの紹介です。といっても、いきなりデモクラシーとは何かという大問題に取り組むわけではありません。簡単なイメージとしては、どこかの大統領のいう「デモクラシー」でもいいですし、誰の専売特許か知りませんがデモクラシーの絶妙な日本語訳である「でも、暮らしいい」でもかまいません(いや、やっぱりそれではダメかもしれません)。とにかく、私がここで主張したいポイントは、いわゆる政治学の分野においても「対話」とか「討議」とかがキーワードになってきているらしい、ということです。なにも、科学界だけが「対話だ。対話だ。」といっているわけではないのです。「対話」で科学と政治がリンクしているようなのです。

もちろん、冒頭に述べたように「対話」はデモクラシーの原点でもあるのですが、近代政治学においては、どちらかというと「代議制デモクラシー」をどうやって運営していくかという議論の方が重視されてきたと思います。ところが、1970 年ごろから市民社会において市民が「参加」することや「討議」することについての議論が活発になってきます。とくに、1990 年代を通じてキーワードになってきたのが「deliberative democracy(討議デモクラシー)」です。「代議制デモクラシー」のキャッチフレーズが「選挙に行こう!」ということであれば、「討議デモクラシー」のキャッチフレーズは「みんなで討議しよう!」ということになるでしょうか。もちろん、この二つのデモクラシーは対立するものではなく、補完しあうものだと考えられています。

 早速、討議デモクラシーのポイントをまとめてみます。東大名誉教授篠原一氏の著書『市民の政治学−討議デモクラシーとは何か−』 のまとめによると、討議デモクラシーは、第一に「市民社会における討議に最大の価値」をおきます。よって、十分な討議を実現するために「正確な情報」があたえられ、「異なる立場にたつ人の意見と情報」も公平に行き渡るように配慮されなければなりません。第二に、討議を実りあるものにするために「小規模なグループ」でプ」であること、そして可能なら構成メンバーも「流動的」であることが望まれます。そして第三に、討議の過程において「自分の意見を変えることは望ましいこと」と考えられています。

 では、どうしてこのような仕組みが必要とされているのでしょうか。"Why Deliberative Democracy?(どうして討議デモクラシーなのか?)" という本の中で、ガットマンとトンプソンは討議デモクラシーの目的を(自身による拙い和訳恐縮ですが): 共同的意思決定(collective decisions) の妥当性を進展させる。 公共的問題において公共心にもとづいた考え方を勇気づける。 お互いに敬意を持った意思決定のプロセスを促す。( 共同的意思決定も誤る場合があるので)誤りを是正するのを助ける。の四点にまとめています。これだけでは、他の民主主義理論とどう違うのかという批判もできるかもしれませんが、彼らは、他の民主主義理論がある一つの方向性にこだわるのに対し、討議デモクラシーには「互恵主義(reciprocity)」、つまりお互いに影響をあたえ合っていく特徴を持っているのだと主張します。

 これらのまとめから、さらにまた私が乱暴にまとめてしまえば、討議デモクラシーは、多数決を取るためというよりも、より多様で密度の濃いコミュニケーション=討議を促し、異なる意見を持った人たちでもお互いに妥当な終着点を探ろう、そしてその終着点も常に変わりうるものなのだとお互いに理解しておこう、というものです。これらがすぐに実現されるのならば、「討議デモクラシー」は本当に素晴らしい!ということになりますが、現実には、今のところ理論先行のようであります。また、討議デモクラシーは理想主義的だ、という批判もあるようです。それでも、コンセンサス会議や市民陪審、討議制意見調査(Deliberative Poll) などは、まさに討議デモクラシーの実践であり、これからの成果が期待されているのです。だから、(少なくとも政治理論や社会理論において)「討議デモクラシー」は人気上昇中なのです。

●討議デモクラシーの中の専門性

 しかし……勘の鋭い読者の皆さんはお気づきのことと思いますが、この討議デモクラシーは、コンセプトとしては素晴らしいのですが、こと科学の絡む問題に関しては、なかなかしっくりしないところが出てきそうなのです。その原因の一つが科学(者)の持つ「専門性(expertise)」です。専門性は科学者や科学者集団の持つ最大の利点であります。科学は、それぞれの専門分野においてお互いの研究成果を論文などで評価しあう「ピアー・レビュー」や長年の研究の蓄積の上に「専門性」を高めていくことによって、新しい発見や問題の解決方法が生み出されていくのだと考えられています。

 この専門性が、討議デモクラシーにとっては逆説的な存在となってしまうのです。つまり、専門性が高まっていくほど、前述したような討議デモクラシーの第一のポイントである十分な討議を実現するためのハードルが高くなっていきます。まず、平等な立場で討議するために必要な「正確な情報」を共有することが難しくなってきます。少数の専門家だけが正確に理解している専門的な内容について理解するのは、分野外の専門家にとっても難しいですし、いわゆる非専門家にとっては極めて難しいことだと予想されます。また、論争的な問題では、しばしば「正確な情報」についての専門家の意見も分かれたりします。そういう状況において「異なる立場にたつ人の意見と情報」が公平に行き渡るかということも、はなはだあやしいといえます。討議デモクラシーの理念にとっては、専門性が弱点となってしまうのです。

 この連載を通して紹介してきた対話型イベントにおいても、時間内でできる限りの情報提供や異なる意見を示そうとしています。論争的な話題を選び、様々な意見を生み出そうという意識も高いです。また、話し手もあえて対立するような専門家を同時に選んだりしていました。しかし、その場で異なる意見をぶつけ合うことはあっても、討議デモクラシーの三つ目のポイントとしてあげた「自分の意見を変えることは望ましいこと」ということは、専門家の間ではあまり共有されていません。というのも、対話イベントのような場において、「専門家」は、自身のデータや研究にもとづいて、できる限りゆるぎのない意見を持つことが求められる傾向があるからです。

 「いや、そもそも対話イベントは討議デモクラシーなんて目指していないのだよ」と言うこともできるかもしれません。しかし、あえて対話イベントを討議デモクラシーの理念と重ね合わせてみて考えてみると、専門家と市民の間で「共同的意思決定」や「互恵関係」、「公共心にもとづいた考え方」を共有することの難しさが浮かび上がってきます。討議デモクラシーもまだまだ机上の空論的なところがありますし、当面は、デモクラシーうんぬんについてはあまり気にせず、対話や討議の場をどんどん広げ、そして活発にしていくことが大切なのだと思います。しかし、こうした試みに本気で取り組み、息の長い活動にしていくのだとするならば、専門性とデモクラシーの折り合いをどう付けていくのかということが後々大きな問題になってくるはずです 。その時のために、この問題についても今からみんなで「討議」しはじめてもよいのではないでしょうか。

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