岡橋毅
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今回が最終回です。連載をはじめさせていただいたきっかけは、ぷち土曜講座でお話させていただいたことでした(それよりも、もっと前のきっかけは、土曜講座の会合にはじめて参加させていただいたことでした。ちなみに、その会合では、「市民科学研究室」の名称が決定されたことを記憶しています)。連載をはじめるにあたって、私は、「科学カフェ(Café Scientifique)」という、楽しい活動を紹介し、かつ、学問的にもおもしろい考察を加えていくことを考えていました。科学カフェの紹介については、ある程度、成しえたと思いますが、考察部分については、とてもおもしろいものは書くことができず、自分の未熟さを痛感するのみです。
振り返ってみると、この連載中に、日本における「科学と社会」の関係も、私の身辺も大きく変わりました。
まず、日本社会において、科学と社会、あるいは科学と市民の関係を考えよう、良くしていこう、という試みが以前よりも増して盛んになってきたことがあります。1995年成立の科学技術基本法から10年たち、科学技術と社会を結ぶ人材育成プロジェクトが立ち上がる(まさに私が関わっているものです)など、国が主導している印象もありますが、その根源をたどれば、市民が、科学技術に関わるさまざまな問題と向き合うなかで、現状の科学技術の進め方や社会でのあり方に疑問を持つようになってきたことがあると思います。
そして、私が科学カフェの観察者だけではなく、運営者になったことです。科学カフェについて調べはじめた頃から、私の中では、「論じるよりも、自分で実践するべきなのではないか」という思いがありました。だから、北海道大学の科学技術コミュニケーター養成ユニットのプロジェクトに関われたことは、またとない好機でした。受講生の皆さんと一緒に、札幌で「科学カフェ」も行っています。しかし、「論じる」のと「実践する」のでは、まったく違う、ということを感じる日々でもあります。
さて、以下にまとめとして、これまでの連載を振り返ってみます。
私は、この連載を通して、イギリスで盛んになりつつある、科学を気楽に話しあう「科学カフェ」について紹介してきました。特に、イギリスの各地に広まっている"Café Scientifique"と、ロンドンのミュージアムがたくさんあるサウス・ケンジントンに新しくできたDana Centreについて、レポートしました。この二つは、カフェ(やパブ)で科学の話しを活動の内容は似ているものの、その出自はまったく違います。イギリスのカフェ・シアンティフィークが、ある一人の思いつきから始まり、各地に広がっていった草の根の活動なのに対し、ダィナ・センターは、英国科学振興協会やウェルカム財団、ダィナ財団などの科学振興関連団体の大きな後押しを得て運営されています。また、会場による違いや、それぞれの科学カフェにおけるテーマや話し手、ファシリテーターの違いによって、科学カフェの体験が異なるものになっていくことも強調したつもりです。つまり、科学カフェは、多様な形で行われ、参加する人たちの動きひとつで変化する即興的な場なのです。
連載の途中からは、科学カフェについての考察を試みました。キーワードで振り返ると、デモクラシー、インフォーマル、パフォーマンス、対話、という変遷をたどりました。そのどれも、私の力不足で、うまく論じることができませんでした。ここで、もう一度、短く考えをまとめてみます。まえに書いたことと違うことを書くかもしれません。
デモクラシー。科学カフェとデモクラシーとのつながりを考えたかったのは、果たして、この小さな話し合いが、大衆化した社会、巨大化した科学を相手に何かしらの影響を与えていくことができるのか?という疑問からでした。もちろん、科学カフェなどの能動的な参加者による話し合いは、とても意味があると思っています。デモクラシーの源でもあると思います。しかし、それが社会と直接つながっていない、あるいは社会とのつながりが薄いものである限り、それは見せかけにすぎないデモクラシーなのではないか、ということです。科学カフェを純粋な娯楽として考えるならば、こんな批判は不必要なのですが、もし、科学カフェを本当にデモクラシーにしていくのならば、科学カフェには、その可能性を感じられることはできても、その実効力には疑問符がつきます。
それでも、科学カフェのようなイベントと社会のつながりを考察したくなるのは、インフォーマル(=形式張らない、正式ではない、非公式の)な行為やイベントが、現代を生きる私たちにとって、ますます重みを増しているからです。つい数行前で、科学カフェは社会とのつながりがない、という内容を書いたばかりですが、イメージや印象というレベルで考えると、少なくない影響があるかもしれません。つまり、科学カフェに参加した専門家や市民、あるいは科学カフェというイメージがもたらす影響ははかり知れないものがあると思います。それは、とくに日本での、科学カフェの広がりが証明しています。科学カフェという、インフォーマル=正式ではない行為なり、伝達方法(メディア)に威力があったからこそ、イギリスで流行し、日本へも伝わってきたといえるからです。
どうやら、私には、科学カフェを社会(運動)につなげていきたい欲求があるようです。それが、パフォーマンスというキーワードをひっぱってきた理由でもあります。たとえば、パフォーマンス研究では、演劇やダンスなどのパフォーマンスだけではなく、社会を舞台とみなし、社会で起きていることをパフォーマンス(社会劇)としてとらえ、社会に介入していくような研究プロジェクトが推奨されたりしています。社会科学や文化研究をしようとする者にとっては、テキスト中心主義のアカデミズムに果敢に挑む、とてもラディカルな考え方です。つまり、パフォーマンスというキーワードで私が主張したいのは、科学カフェのようなイベントを通じて(欲をいえばもっと制度化された形で)、アカデミズムが少しでも社会と関わることで、自らの研究を磨いていくべきだということです。それは、社会科学者でも、自然科学者でも、関わり方の違いはあっても、本質的に大きな違いはないと考えます。
最後に、対話についてなのですが、この連載のタイトルについて述べることでまとめてみたいと思います。
私は、この連載をはじめるにあたって「科学と市民の対話は可能か?」というタイトルをつけました。皆さんも毎回お気づきだったかもしれませんが、ちょっと変なタイトルですよね。文章としては、「科学者と市民の対話は可能か?」とした方がしっくりきます。しかし、私はこの不安定なタイトルにひそかにこだわりました。その理由は、第一に、科学カフェに登場する話し手は、科学者だけではないからです。そして、もうひとつの理由として、科学者と市民の対話が可能になるだけでは、科学と社会の関係がより良くなっていくとは思っていなかったからでもあります。
科学カフェを観察してきて、私が思ったことのひとつは、科学者も市民も、「科学」というものを相手に対話をくりかえしているのではないかということです。つまり、多様な科学へのイメージや考え方を持った人たちがあつまる科学カフェにおいては、「科学」なんてものはないに等しいのです。だから、科学者や専門家が、同じ領域や業界の同僚ではなく、一般市民に語りかけるとき、繰り返し彼らの中で問いなおしているのは「科学」というものかもしれない、ということです。それは、市民にとっても同じです。ある科学(技術)についてのお話を聞いた後、その内容について考えたり、質問したりするときに、おのずと「科学」って何だろう、ということを問い直しているのではないでしょうか。
そういう意味で、科学カフェには、科学と対話する機会がたくさんあると思います。どれだけ話の内容について理解したか、なんてことは二の次です。まずは、自分にとっての「科学」を考えること。そして、それを共有しようとすること。それが楽しいのだと思います。そう考えると、「科学」は、私たちが考えあっていくための、最高のイメージなのかもしれません。
最後に、市民科学研究室の上田さん、編集スタッフの皆さんに感謝いたします。また、読みにくい拙文を辛抱強く読んでくださった皆さん、本当にありがとうございました。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。■