投棄された旧日本軍の毒ガス兵器

『科学と社会を考える土曜講座 論文集』第1集 1997 16 年5月

高 橋 佳 子
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■広島県・大久野島土壌からヒ素

 1996年7月中旬、私は広島を訪ねた折、友人から聞いていた<旧毒ガス島>をどうしても見たいと思い、大久野島へ足を延ばした。

 大久野島は、周囲4キロの島全域が国民休暇村で海水浴客や修学旅行生など年間15万人も訪れる観光の島である。プールやテニスコートもあり、サイクリングもできる。この日もたくさんの家族連れなどが宿舎に溢れていた。休暇村の宿舎はロビーも広くホテルのようで、ロビーに続くレストランも海水浴客やテニス焼けした観光客でいっぱいだった。

 島の桟橋近くに赤い煉瓦風の造りの「毒ガス資料館」があり、島のかつての歴史を知ることができる。いかに過酷な労働条件の中で工員たちが働いていたかが解る。当時の防毒マスクや防毒服が展示されており、その頃の様子が身に迫ってくる。多くの人がこの毒ガス工場で作業中に被毒していた。展示室を進むにつれて次第に気持ちが重くなっていった。

 展示を見終えて、一歩外にでると強い夏の日差しがいきなり、重くなった頭の上を照らした。相変わらずたくさんの家族連れが浮輪やビーチボールをかかえて歩いている。「大きなギャップだなあ」と感じた。

 疲れた身体を休めようと再びロビーに戻った。そこでたまたま手に取った『中国新聞』一面に、「えっ」と、わが眼を疑った。《大久野島土壌からヒ素/毒ガス貯蔵地跡/基準の400倍》と大見出しが踊っていた。

 旧日本軍毒ガス製造工場のあった大久野島の土壌から大量のヒ素が検出されたというのである。 恐ろしい記事の内容と自分がまさに今、そこを訪ねている偶然とに私は驚いていた。つい数十分前、<毒ガス資料館>で初めて見た、防毒服と防毒マスクに身を包んだ作業員の姿、毒ガス工場内の異様な写真が、ヒ素という言葉とともに蘇り、思わず息苦しくなった。

 この島で戦後50余年を経た今も、水道水までが汚染されていることが、環境庁の調査で戦後初めて明かにされたのだった。

 しかも環境庁はこの調査結果の概況を、調査を始めて間もなくの1995年7月にはつかんでいながら「対策を立ててから発表するつもりだった」として1年間公表していなかったのだ(『中国新聞』7月13日付朝刊)。

 その後も新聞には《毒ガス遺棄 重いツケ/「国の責任」迫られる全容解明》、《水道水からもヒ素検出/6月末取水を停止》といった見出しで、連日大きく一面に報じられていた。


■旧日本軍化学兵器の処理策

 1997年1月、《今春から本格調査/旧日本軍の化学兵器処理策/政府欧米専門家にも依頼》(『朝日新聞』7日付朝刊)という記事が目にとまった。旧日本軍が日本から中国東北部に運び遺棄した毒ガス弾を、日本政府が「化学兵器禁止条約や日中平和友好条約の精神を踏まえて、責任をもって処理する考えを示した」という。1997年度予算に3億2千万円が盛り込まれたとある。

 日本は、国際法で禁止された毒ガスを製造・使用したが、東京裁判では731部隊同様に免責された。それが最近になって化学兵器に対する国際的な批判の流れと中国との外交政策上大きな懸案となり、戦後52年目にしてやっと本格調査を始めることになった。

 中国でも日本でも今なお未処理の毒ガス弾による事故が数多く発生し、死傷者を出している。にもかかわらず、日本政府はこれまで積極的な対応をしてこなかった。中国ではこれまでに土木作業員など2,000人以上が死傷している。そういう現実にようやく目を向けた遅すぎる<戦後処理>なのである。


■「毒ガス島」大久野島

 第一次大戦後の1919年、旧日本陸軍は化学兵器の研究を推進するため、東京・戸山に科学研究所を設立した。あの731部隊とも深く関わりのあった通称”科研”である。10年後の1929年、大久野島に毒ガス工場を開所する。しかしその名称は「東京第二陸軍造兵火工廠忠海兵器製造所」というもの。毒ガスの製造所であることはもちろん極秘だった。

 終戦まで7,000人に及ぶ従業員や少年工、動員された学徒が働いた。1937年、日中戦争が始まる頃から毒ガス製造は本格化し、最盛期の1941年には年間総生産は6,616トンにもなっている。製造された毒ガスは、びらん性のイペリット、ルイサイト、くしゃみ性のジフェニール・シアンアルシン、窒息性の青酸ガス、催涙ガスの塩化アセトフェノン、等だった。ここで製造された毒ガスはそのほとんどが中国大陸に運ばれ、一部が日本国内とアジア各地に配備された。


■戦後の毒ガス処理

 1945年8月、日本が敗戦するとすぐ、GHQは東京で化学兵器について事情聴取、同時に米軍化学処理隊130人余りが9月20日に大久野島に入り調査を開始している。翌年5月、英連邦軍監督のもと、工場解体と毒ガス処理を請け負った帝人三原が作業を開始した。

 処理の方法は海洋投棄であり、その量は、毒液1,845トン、毒液缶930トン、くしゃみ剤990トン、毒ガス弾16,300個にのぼった。毒ガス貯蔵庫では火炎放射器によって毒性を取り除く作業がおこなわれた。現在も島には内側が黒焦げになったコンクリートの巨大な貯蔵庫が、不気味にそのままの姿をさらしている。

 海洋投棄の場所は高知県の室戸岬沖69キロと88キロ、足摺岬沖235キロの地点。船ごと海没させた毒ガスはその後処理されることもなく、現在も海底にそのままに放置されているという。
これ以外にも、日本国内には各地で投棄された毒ガスが4,000トンも放置されたままになっている。それらが戦後、いくつもの事故をひき起してきた。


■続発していた毒ガス事故

 1957年、千葉県銚子沖でイペリット入りの鉄製壷が発見された。連合軍の命令で投棄された関東甲信越から運びこまれた毒ガス約450トンだった。

 また、同年、山口県宇部沖では海底の弾薬類を引き揚げていたサルベージ会社の潜水夫がイペリット弾によって被毒したが、宇部海上保安庁は再投棄を指示しただけだった。1967年には、青森県陸奥湾でも、毒ガス弾を引き揚げた漁師が被害を受けている。大久野島周辺でも1971年頃には、漁師がひっきりなしに引き揚げていたという。北海道屈斜路湖にもルイサイト、イペリットが沈んでいることが判っている。ここは釧路市の水源であり、市民の不安は大きく、取水口に飼っている魚をモニターで24時間監視している。この他にも浜名湖、遠州灘、別府湾にも毒ガスは投棄されている。

 防衛庁は1972年から73年にかけて、全国的な毒ガス投棄の調査を実施、18ヵ所を確認した。しかし、環境庁、防衛庁、厚生省の各省庁が処理責任を押し付けあい、そのままにされた。環境庁は96年7月の大久野島のヒ素検出をきっかけに、20年以上も経ってこの18ヵ所の追跡調査を始めた。


■毒ガス島から国民休暇村への経緯

 なぜ戦後50年も経った今、国民休暇村になっている島からヒ素がでるのか。逆に言えば、ヒ素がでるような島がなぜ国民休暇村になったのか。

 この経緯を詳しく知りたいと考えた私は、初めて大久野島を訪れてから2ヵ月後の96年9月、再び大久野島と対岸の忠海町に向かった。忠海町では、かつての毒ガス工場で少年工として働いた経験をもつ、村上初一さん(71)を訪ね、話しを聞いた。村上さんは1988年、大久野島に毒ガス資料館が建てられると初代館長に就任し、自ら体験した被害を語るうちに、その加害性にも気がついたという人だ。

 大久野島の戦後史をみると、工場の解体が終わった1947年に占領軍から日本政府に返還され、大蔵省が管理。しかし、朝鮮戦争が始まった翌年1951年には再び米軍が弾薬庫として使用するために接収。5年後の1956年に再返還され、大蔵省の所管に戻っている。1960年、所管が厚生省に移ると、島が国民休暇村第一号に指定された。1961年には環境庁ができ、そのまま所管は環境庁に移されて、1963年、国民休暇村として一般に開放された。

 厚生省は、米軍が弾薬庫として使用してからわずか5年後に全島を国民休暇村に指定した。環境庁は仕事始めのような<国民休暇村>をあえてかつての<毒ガス島>に建設した。

 この頃のようすを、村上さんに聞いた。村上さんは、高等小学校卒業後の1940年から養成工として島に入り、戦後は1951年から忠海町役場の職員として働いていた。

─休暇村ができるまでの様子はどうだったんですか。
「昭和32年か34年頃か、役場の職員が夜2人ずつ島に当直にいっとる。大蔵省の管轄で中国財務局が管理して、財務局が地元の行政に委託したんでしょ。当時まだ建物は軍隊舎がありましたよ。残ってた。そういう中で、昭和35年に国民休暇村いうことにいよいよなりました」

─かつての毒ガス島で働いていた村上さんとしては、その頃も危ない島という感じはやはりもっておられましたか。
「そりゃありました。休暇村になったとはいいながら臭いはまだありましたからね。これで大丈夫なんじゃろうか、ってね。だから、今回ヒ素問題がでたときにね、当然のことじゃ、いうたんですよ」
(訪ねた町の高台にあるご自宅の部屋には、たくさんの毒ガス関係の文献やファイル、ビデオテープなどが、パソコンやファックスとともに、村上さんが背にして座っている棚にびっしりと並べられていた。現在村上さんは「毒ガス島歴史研究所」を発足して代表となり、この部屋はその事務局になっている。)

─地元の誘致もあったと聞いていたのですが。
「戦争が終わって毒ガス工場が去った。そしたら、徹底的に毒ガスを取り除いてくれゆうのは人情ですな、そこをうまく利用したのが行政ですな」

(毒ガス製造の過去を隠したい中央官庁が持ちかけ、島が観光地になればという地元の商工会を始めとする行政が休暇村誘致に動いた。そういうかたちにさせられた可能性は十分にあるのではないか。)
─国民休暇村をつくるという土地の安全性はどの程度確認されていたのでしょうか。当時まったく調査をせずに休暇村建設を始めたとはどうしても考えられないのですが。

 「やってないでしょう。進駐軍が1年かけてやった処理をもって完了したとしてるんでしょう。」


■安全宣言なき休暇村・大久野島

 信じ難いが、休暇村を利用するであろう人たちに及ぶ危険性は度外視し、なにがなんでもそこを休暇村にすることが目的だったとしか考えられないではないか。もしそうだとすれば、その目的が達せられなくなるような、毒ガス残留の調査など積極的にするはずがない、ということになる。

 そして実際、島では休暇村になってからも毒ガスによる事故は起きた。

 休暇村となってから6年後の1969年には、防空壕からくしゃみ性毒ガス、ジフェニール・シアンアルシンの入った砲弾が大量に発見された。

 この年の衆議院内閣委員会で、広島選出の浜田光人社会党議員は「毒ガスが残っていることを知りながら、国民休暇村を建設したのではないか」と政府を追及している(落合英秋著『日本の恐怖・毒ガス』)。浜田氏によれば「イペリットでただれた漁師もいれば、金もうけしようとして死んだ古鉄屋もいる。そういうことを政府はひた隠しに隠して、休暇村をおっ建てた」(前掲書)、とある。

 また1972年4月には、島の北岸からイペリットとルイサイトがでている。このときは海水浴場にするための護岸工事中に発見されたが、建設業者はこれを騒いだら大変なことになるといって、また埋めて隠した。しかし工事も終わった後で、作業員として働いた人が「こういうことがあって、その時に目がチカチカして」と話したことを新聞が書いたことから、大きな事件になった。このときは造った護岸をまた壊して掘り出している。

 こういった事件のあと、地元竹原市は政府に対して「毒ガスを完全に除去して安全宣言をするよう」に陳情までした。

 これを受けて所管の環境庁は現場だけの調査をしたが、結果は「イペリットその他の毒ガスは検知できなかった」というものだった。

 これまでの政府は一貫して、<毒ガス隠し>をしてきたのである。

 村上さんは言う。

 「1995年の外務委員会で河野外相がいってましたけれど、毒ガスを(中国で)使ったことは確かだが<あか>の非致死性のものだけで、致死性のものは使っていない、とね。あれがまあ、事ここに至って往生際の悪いことよのうと私なんか思いますけどねえ。わたしらあそこで生産するときには<あか剤>(ジフェニール・シアンアルシンの呼称)いうたら、毒ガスの中でも危険加給をもらいながらつくったんですからね。それを科学的に致死性だとか非致死性だとか、いかにも非致死性なら絶対に死なんのだみたいにね。そりゃ死にますよ、狂い死にしますよ。あれはシアン系ですからね」

 中国の毒ガス処理を前提とした調査もすすんでいた1995年になってもまだ、日本の外務大臣がこんな発言をしていたことに、村上さんはなかばあきれた様子で話した。


■日本に課せられる毒ガス処理

 日本政府は化学兵器禁止条約を1995年9月に批准した。条約が発効すれば10年以内に国内外の化学兵器を処理しなくてはならない。

 これから日本が10年間で終えなければならない処理とはどのくらいのものなのか。
 
 日本政府は1995年9月と1996年5月の2回、すでに中国で調査をして、70万発の砲弾が埋っていることを確認した。しかし、いずれも埋められてから半世紀も経過しているために腐食がひどく、砲弾の種類の特定と中の毒薬の分析が困難な状態になっている。

 日本には、この腐食した砲弾の中味を分析し処理する技術はない。しかも、この毒ガスには毒液の凍結防止のために入れられた<ヒ素>が含まれているのだ。ヒ素は分解できずに永久に残る物質である。

 毒ガスの処理技術は米、英、独、ベルギーなどがもっており、現在すでに処理が行われている。しかし完全自動化された米国の技術は、腐食した日本の砲弾には使えず、ドイツの焼却方式では廃棄物が残る。この中で、ベルギーは第一次大戦のときの腐食した砲弾を処理しており、この点については日本の状況ともっとも近い。しかし腐食しているために自動化もままならない中での処理は、1日に16発しかできない。ここから計算しただけでも、現在わかっている70万発の処理に200年はかかり、その経費は数千億円と見積もられている。


■誰が毒ガス処理の現場で働くのか

 私が一番気になるのは、これまでにも数千人が被毒した毒ガスの処理で、新たな被毒者が出る可能性が非常に高いことである。

 忠海町では、毒ガスの後遺症に苦しむ人たちを診察し続けて来た忠海病院の院長行武正刀さん(63)を訪ねた。病歴管理室に案内されると、そこには4,500人分のカルテが床から天井まである棚にびっしりとファイルされていた。行武院長の話では、1951年までに147人が肺の壊死によって死亡している。「身体じゅう真っ黒になって血を吐いて死んでいった」というのが、院長がかつて聞いた古い開業医の証言だった。また1952年の調査では、当時はまだ非常に少なかった肺癌の死亡率は全国平均の20倍の数字であった。

 大久野島で被毒した人たちは、高齢となった今でも、冬になるとひどくなる慢性気管支炎などで、病院への入退院を繰り返している。

 中国側は昨年末の政府間協議で、国内で廃棄処理することを前向きに検討すると初めて表明している。日本側は、米英仏などの技術を持つ民間処理会社による処理を考えているようだが、いずれにしても、そこで働くのは誰なのか。かつての大久野島の毒ガス工場で被毒した工員の人達は戦後も長い間苦しみ続けている。

 この人たちの多くが、地元から「軍需工場ができた」とその高給に喜んで、危険な毒ガスをつくっていることを薄々気付きながらも、働き続けたことを忘れてはいけない。
日本はこれから、一日もはやく処理をすすめると共に、これ以上の被毒者を出さずに全ての毒ガス処理をする責任をも負っている。

<未処理の戦後>を21世紀に持ち越してはならない─毒ガス島の戦後史はそう訴えている。

参考文献
●『ドキュメント 日本の恐怖・毒ガス』 (落合英秋著、番町書房、1973.9.30)
●『写真集毒ガス島』(樋口健二著、三一書房、
『科学と社会を考える土曜講座 論文集』第1集 1997 年5月 21
1983.8.15)
●『地図から消された島』(武田英子著、 ドメス出版、1987.5.11)
●「大久野島・動員学徒の語り」(岡田黎子・絵・著および発行、1989.12.15)
●「毒ガス島の歴史(大久野島)」(村上初一著/発行、1992.12.25)
●『隠されてきた「ヒロシマ」』(辰巳知司著、日本評論社、1993.8.15)
●『日本の中国侵略と毒ガス兵器』(歩平著、明石書店、1995.7.20)
●「記録にない島」創刊号(毒ガス島歴史研究所会報、1996.5.31)
●『毒ガスの島 大久野島悪夢の傷跡』 (中国新聞「毒ガスの島」取材班著、中国新聞社、1996.8.1)■

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