毒ガス資料館元館長 村上氏へのインタビュー

『科学と社会を考える土曜講座 論文集』第1集 1997 年 22 5月
版はこちら


★毒ガス資料館 元館長 村上 初一さんへのインタビュー
★聞き手:高橋佳子(フォト・ルポライター) 山口正紀 (新聞記者)
★まとめ:高橋佳子
★1996年9月29日(日)午前9時〜午後0時(忠海町、村上さん宅)


■−加害も被害も両方学習する

村上初一氏:近畿地方から修学旅行生がやってくると、大久野島に夕方着いて、まず毒ガス資料館を見学して、休暇村に泊る。私が夜宿舎に行って話をする。校長先生が私のところにやってくると、熱心な人かどうかわかります。翌朝一番で平和記念公園へ行って資料館を見学する。その逆もある。平和学習として、加害も被害も両方学習することになる。

 外国の記者を、地元の中国新聞が招請することもあります。毎年5か国くらい、アジアからも来ます。去年は戦後50年ということでヨーロッパからも来ました。日本に来たどの記者も言いますね、このように具体的に戦争の加害と被害の両面が言えることはすばらしい、と。


■−傷害者対策連絡協議会は、当初の目的は援護のためにのみ動く会だった。

高橋佳子:資料館ができる時は大変だったのでは。

村上:中心となったのは毒ガス被害者ですね。この人達は、国に造らされたんだから、どちらかといえば被害者である、という意識が強いですね。これからは、加害の面も語ってゆくことが必要です。もうひとつ、被害者の陰に考えがある。というのは、国に造らされたゆうことは、国に責任がある。そうはいっても、このことを我々が大きな運動にすると、救済に大きなひびが入る。なんかモヤモヤしたところでずっときた。

 そこで、今度は慰霊碑を造ろうということになった。それを造るきっかけは、広島大学医学部の大久野島毒ガス傷害研究に携わっておられたお医者さんから、慰霊碑建設の呼びかけがあり、話は急速に決まり、昭和60年に大久野島毒ガス傷害死没者慰霊碑が建立した。

 それと同じころに、毒ガス資料館建設の動きもあった。昭和59年ですか、立教大学並びに中央大学の先生の化学戦実施資料発見により、新聞報道された。このことから毒ガス戦争の実態が明らかになっていったんですね。それで59年になってから、地元の議会で革新議員が三分の一くらいいるんだが、社会党の議員の中の一人が、議会で「日本の戦争責任を明確にする資料館で、日本の加害の責任を明らかにする」ということを行政に要望した。また、毒ガス傷害者の会に呼びかけたけれど、傷害者自身は、あまり中心になりたくない、国に遠慮があるから、と。そういいながらも部落解放同盟の押しが強くあって、行政も同和教育問題には力を入れていて、それで資料館もできたようなもの。これは、はっき
り言える。

 今、その時代から3人目の市長だがね、こりゃもうほんとうに骨抜きです。毒ガス問題にまったく言及しようとしていない。勉強をしようともしない。竹原市長は代々傷害者対策連絡協議会の会長として、あて職でなっている。この協議会そのものが、即ち御用組合みたいなもんでね。毒ガス傷害者を抑えるために昭和42年につくられた。これが、県内八市長に傷害者の中から代表10人が選ばれて会ができた。その会長が常に「毒ガス問題は行政が言及するものじゃない、対策連絡協議会が考えるもんじゃろ」と、毒ガス問題から逃避するようなことを言う。「このことは救済のためにはプラスにならん」と。すなわち
傷害者対策連絡協議会は、当初の目的は援護のためにのみ動く会だった。

 湾岸戦争の頃にフセイン大統領やブッシュ大統領に「生物化学兵器をつかうな、使ってはならない」とメッセージを送った。その動きがあったころ、急遽その年に会の規約改正をやって、<生物化学兵器撲滅啓発活動ができる>ということをひとつ付け加えた。それはただ格好の上だけで、じゃあ撤廃のために啓発活動をするのかといったら、まったくしていない。これをどうかと追及する人もおらん。

高橋:規約改正はすんなりとおったんですか。

村上:規約改正についても、傷害者の方はあんまり知らん。


■−救済の要項を大蔵省がつくって、元工員のみ救済されるということになった。それで分裂していった。

高橋:村上さん自身はどこの団体に属しているのですか。

村上:私は、厚生会。そこで、会計を担当している。厚生会も対策連絡協議会に入っています。まあ、会の中で私のような考えをしている人はほんの少数。実際に協議会の中の十団体がどういう動きをしているかといったら、まあ平和運動はほとんどしていない。無知無能な状態で、ささやかながら国から救済を受けているのみ。

 昭和42年に協議会ができたときは、まず一般の社会に理解をしてもらおうということで、東京の数寄屋橋などで啓発活動をしたこともあったんです。これをやった人達は、会の中でも、徴用令に基づいて強制的に大久野島に引っぱられた人達の会だった。この人たちが柱だったわけですね。それと一緒に動いたのが、私たちの厚生会とか、兵器補給所というのがここにあったんだがそこに勤めていた人達も、協力してやりました。

 今ひとつ、互助会という会が昭和27年頃から組織をつくってやっておったのですが、最初は全員がこれに入ってやってきた。梶村政夫さんが会長。その救済の礎をつくった非常にオーソリティーの人でね。
しかし、そのあと分裂していった。もともと救済を受けるのに会を組織したのは、要するに援護法の制定が柱でしたから、始めはそれをさかんに呼びかけたんです。参議院の広島地方区でさかんに議員から支援をいただいて、議員立法でも出してもらう動きがあったそうですが、なかなかどうして東京裁判でも毒ガス戦は免責していますし、それを明らかにすることはできなかった。そこで、大久野島では元陸軍共済組合があってそれに入っていたんです。その関係で、救済の要項を大蔵省がつくって、元工員のみ救済されるということになった。それで分裂していった。それで分裂のしかたが、いわば職能的になっていったんですね。

山口正紀:その救済を大蔵省の陸軍共済組合でやるというのも、厚生省は最初から逃げているわけですよね。それは大きいですよね。

村上:そう。始めは参議院で立法化するってことだったが、それができなかった。これではなんとか救済しなきゃいかんとなって、大蔵省が国家公務員共済組合を窓口にしてガス傷害者救済要網というのをつくったわけです。

山口:そこで、傷害者を分断させてしまった。厚生省は、初めから救済をやらないで大蔵省の共済組合にまわしちゃったんですね。

村上:軍の関係ということで、厚生省は、大蔵省が持つべきだろうということだったんでしょう。ここの工員はりっぱな軍属でしたからね。しかし国のほうは、救済するのは国家公務員共済組合連合会へ窓口をもってこうとした。そして、そのお金を大蔵省主計局がやりましょう、ということで。

 厚生省がでるのは昭和45年になってからだと思います。非工員をどうするかというのはその後長いこと続きまして。非工員のなかには学徒動員もある、勤労奉仕がある、戦後処理がある。で、こういう人達は、厚生省がということになりました。

山口:そうすると、救済の運動もそういう非工員の人達が段々と分断させられていったんですね。

村上:そこは、民主団体の人達がよく言いますね。やっぱり、分裂させるための措置だったのじゃないかと。だから、うまく仕組まれて救済の方式をかえていった。

山口:陳情というかたちですね。

村上:そうです。未だに陳情です。陳情をするのに各団体から2〜3名出して、年に3回は行ってたんです。それで、負担金をみんなで出すようになったんです。それと慰霊式を年に1回開催するということになった。慰霊式はただ集まるだけで、しかも来賓と遺族だけ。何にもないんです。連絡会議は、別に傷害者代表が月に一回集まって開いている。あとは運営委員会があって、そこでは慰霊式の開催のことだとか、陳情の要旨をまとめて、行く前にそれを配布して、帰ってから反省会をやるということくらいしかしていない。だから、平和運動をやるとかそういう事は一切やっていない。


■−要は、「毒ガス戦争の実態は誰が語るのか」ということなんです。

村上: 資料館をつくるということになったのも、建設したのは★★対策連絡協議会(傷害者だという)で、費用は県1千万、竹原市が1千万、協議会が1千万、傷害者の寄付が500万で、3500万円で建てた。その後に、対策連絡協議会は地元の竹原市に移管した。そしてまた竹原市から協議会に、運営を委託した。その協議会の委嘱で私が館長になったんです。だから、私は市の条例職員でもない。

 なんといいましてもまあ、ああいう資料館ですから、戦争のどの部分にあたるのかはっきりしています。それを考えるべきだし、考えられるわけです。しかし「それをゆうては」と言うのが行政です。

高橋:展示物は誰があつめたのですか。

村上:展示物は革新議員の要望に答えて竹原市がやった。現物は工員の作業服、島に転がって残っていた毒ガス製造機だとか。もうひとつには、資料収集を積極的に進める中で、中央大学や立教大学の先生がアメリカで発見した資料のコピーを下さるゆうのを、東京までもらいに行ったり。

 その頃私はまだ関係してませんでしたけれど。市の特別職員で児童問題をやっていて、そんなときに資料館館長の勧めがあって、完成時にそちらにかわったんです。

高橋:では、はじめは市がやったんですね。

村上:そうです、それでこの資料館の意義は「毒ガス製造の実態と毒ガス戦争の実態を語っていく」ということにあったんです。しかし、誰が見てもあの小さな資料館の資料の中に、戦争の被害と加害の面が伺えますよね。

 今年中国の記者から言われたんですが、私も反省はしておりますが、要は、「毒ガス戦争の実態は誰が語るのか」ということなんです。資料はありますが、文献資料ですから、手に取って読んで初めてわかる。そこに、語り部が要るわけです。中国での日中戦争の様子を語るという。やはり、毒ガス戦争を語るなら、そこをハッキリ皆さんに解ってもらうようにするべきなんだけれども、そこはなかなかできない。展示室のスペースの問題もでてきましてね、確かに、中国側の被害の状況もあるのだが、そういうのが見えんです。それをどうするのか。

山口:東京の毒ガス展を見てきましたが、あの展示物の中には、そうとうはっきりと中国の被害の状況がでていました。資料館にもああいったものがあればと思いますね。

村上:そうなんです。去年の8月に展示したんですが、世界の毒ガス被害の写真パネルや、中国の遺棄弾の写真も作ったんです。そうした写真も、少しは飾っているんです。

 今年6月ころ、中国の記者の人が来たときに資料館に行ってみたら、ちょうど折り悪しく、資料室の外の渡り廊下の暗い所にその遺棄弾やらの写真が展示してあった。なぜこんなところに飾るのか。何気ない意識の現われでしょうかね。


■−東京でもヒ素の問題もわかってると思ってたから、全く出てない、と言われてびっくりしましたよ。


高橋:東京の毒ガス展で元中隊長という人が、「中国人は癪にさわるから、あか弾でも使っておけ」といって中国で使っていたと証言していましたが。もう日常的に、大きな作戦とかではなしに、使っていたようですね。

村上:そうでしょうなあ、<あか筒>いうんですが、あれは年間20万発以上つくりましたからな。ほとんど中国でしょう。兵士には、特殊な兵器としか意識がないですから、危急存亡の秋で止むを得ないといって使うんでしょうからね。昭和13年の8月頃の命令系統をみると、滅多なことでは使えとは言ってません。痕跡を残すなということは喧しく言ってましたからね。だから、滅多に、むしゃくしゃするから使えというようなものではなかったのじゃないですかね。しかし向こうでどんな教育をしたかだね。「<あか>は毒ガスじゃないんだ」いう教育をしたんかもしれない。

高橋:はい、その程度の意識ではないかと。その人は、学生運動盛んな頃、デモ隊に催涙ガスを使ったというニュースを聞いても「催涙ガスくらい何でもない」と思っていた、というんですね。大変なことだと気付いたのはごく最近のことだ、と話していました。

村上:昨年の外務委員会で河野外相が、「毒ガスを使ったことは確かだが<あか>の非致死性のものだけで、致死性のものは使っていない、とね。あれがまあ、事ここに至って往生際の悪いことよのうと私なんか思いますけどねえ。あそこで生産する時には<あか剤>いうたら、毒ガスの中でも危険加給もらいながらつくったんですからね。それを科学的に致死性だとか非致死性だとか、いかにも非致死性なら絶対に死なんのだみたいにね。そりゃ死にますよ、狂い死にしますよ。あれはシアン系ですからね。

山口:即死するかどうかの違いだけですからね。

村上:そうなんです。中国では「致死性のものだった、処理する必要がある」と言っているんでしょう。

山口:中国で使ったという人がいて、作ったという人もいて、それでも認めないというんだから、おかしいですよね。

村上:で、またそれを多くの国民が知ろうともしない。これはすごく大きいですよ。

山口:僕も新聞社に勤めていながら、今日は会社の取材ではなくて個人的に来ているんですが、新聞がもっと報道しないといけないのに、判ってても書かないですから。

村上:私も思ったよ、新聞社いうものは便利がよう動くとね。

山口:今年の7月、大久野島でヒ素が出たと中国新聞の一面に載ったときも、東京の新聞には一切出ませんでしたから。

村上:東京の武田英子さん(『地図から消された島』の著者)から「村上さん、ヒ素のことなんか(記事を)送ってくれると思っていたのに」といわれた。東京でもヒ素の問題もわかってると思ってたから、全く出てない、と言われてびっくりしましたよ。しかし考えてみたら、日本の加害性の問題だから無理もないわい、と思いまして。地元だからこれだけ騒ぐんで、一歩離れたらこれが普通じゃろう思うて。

山口:それは新聞社がやってきた自分達の加害のことを書いてないから、それと同じことを書けないということがあると思うんです。積極的にやってきているんですから。日本軍のやったことを鼓舞するような。

村上:その問題はね、資料館でも昭和12年頃の読売新聞にでてる記事で、日本軍が防毒マスクをかぶっている写真があるんですよ。けれどもコメントは、「すわっ、敵機来襲」というね。そうしないと出されんのでしょうね。中国側が毒ガスを使うから、それに備えて防備しとるんだというんでしょうね。そういう記事を資料館で展示するときに見て、びっくりしました。


■−亡くなった犠牲者の方に代って、毒ガス製造と戦争の実態を語る

村上:資料館へ行く前はね、私も毒ガス被害の実態を語りたかったんです。小学校を出てすぐ大久野島に行って、非常に苦しめられましたから、その恨みつらみをですね。自分は日本人の一人として大久野島へ行って、こういうことがあったんじゃと言おうとしてた。ところが敗戦後、役所に入ったからそういう機会もなくて、そこへ資料館の話がきたからこれはもっけの幸いと思って、ここで私の生涯を語ってやろうと。その被害の面をね。

 ところが、だんだんあそこで資料をみたり見学に来られる人の期待感を聞いたりするうちに、被害と加害の実態があることがはっきりしてくるわねえ。1〜2か月経った頃に、学校の先生から言われたんです。「館長さんは毒ガス製造の実態は語るけど、毒ガス戦争の実態は語られんのですか、語ってはいけんのですか」とね。それくらい私の考えかたを変えたものはなかったですね。

 それまでも広島の原爆の啓蒙活動には少し異議がありました。それは毎年毎年8月になるとそういう話になるが、いつも被害の面でもって平和学習とするということに自分なりに疑問を感じてました。だから、これはもう戦争の加害性も語るべきだと思いました。子供たちには、大久野島でこういうことがあった、これは戦争歴史の中で何を意味するものか皆さんから伝えてくれんかといって話している。

山口:それを考えて知って、初めてなぜ広島に原爆が落とされたかがわかるのでしょうね。

村上:そうです。広島の人の中には「それは私らが語る筋のものではない」というような人もいますが、じゃあ誰が語るのかというね。

 地元の中国新聞にでていたのだが、広島平和資料館の館長と外国の新聞記者のやり取りの中で、外国の記者が質問してました。「何をここでは語るのか」と。それに対して館長いわく「ここでは現存している被爆者が亡くなった被爆者に代って被爆の実態を伝えてゆくんです」と。その答えに対して記者は「それを語るだけで、戦争の加害の面は語ってはいけないのですか」と聞いていましたね。答えは「それは語るんですけれども、この平和資料館の中では語らんのです」という記事を読んだときに、釈然としないものがありました。

 それじゃあ、私も犠牲者のひとりですから、毒ガス資料館で、亡くなった犠牲者の方に代って、毒ガス製造と戦争の実態を語る、そして製造の実態の被害の面と、それから毒ガス戦争の中の使用の実態を加害の面として、語って行こう、と思いました。


■−これからは、運動の中で生きてゆこう

村上: そのうち2年たってパンフレットを作ることになって、その中にいかにも観光地という感じの挨拶文があって、竹原市長の顔写真もあって、私は気になりながら我慢していたんだけど、こんどは竹原市で作ることになった。そのときに「この市長の顔写真も挨拶文もいらない、その部分一面に文章を載せましょう」と提案した。その文章の最後にどうしても加害というのを入れたかった。
そしたら市が、その戦争の加害の部分を消して、もう印刷に注文してるんですよ。けしからんということで、まず市の職員組合に言った。でもこれがまたみんな無関心で、考える余地もない。そしたら、県の連合の会長から連絡があって、これは大変なことだから闘おう、と言ってきた。しかし、何年かかっても一人でやるからとそれを断わった。

 しかし議会で、ある社会党の議員が「なぜ、加害の言葉を消したのか」と質問して、その答弁の中で助役が「その文章は加害という言葉がなくても十分真意は伝わると思います」と言った。議員は、なくても伝わるならあってもいいじゃないか、と言って、そのまま決着はつかなかった。そのうち新聞ざたになってきて、連絡協議会の会長の竹原市長から「こういう問題は市の問題ではなく、協議会で傷害者自体の問題にしてゆくべき」と言ってきた。

 それを協議会の場で、会長である市長が「資料館の館長は戦争の歴史を加害性を強調して話している、話だけならいいがパンフレットに刷り込むとは何事か。皆さんどう思うか」と発言して「これはややもすると毒ガス製造に携わった者は加害者であるとゆうことと同じなんですよ」と言い出した。これで傷害者の人たちは「村上けしからんじゃないか」ということになった。そして協議会の副会長が「戦争だから被害、加害は表裏一体なんだ」と。私は、それを聞いて電話で「表裏一体なら、両方語らないのはおかしいではないか、あんたらの考えは被害意識ばかりじゃないか」と聞いたりしました。

 そんなことがずっと続いて、これは村上を資料館から出さなけりゃいけんぞということになって。これは平成3年か4年頃。「しかし、今これをやったらマスコミが騒いでマイナスになるから、70才まで待って定年でということにしよう」と、それで急遽、協議会では定年制を導入した。そのためにわざわざつくったんです。
 
 そのとき、マスコミは協力してくれたようでありながら、退職のときには非常に寂しい思いをしました。今年3月31日で退職をするその日の朝、NHKから出演の依頼があって「じゃあわしは言いたい放題言う、わしは辞めさせられたんじゃ」と言ったら、NHKがそれを言われるとまずいという。新聞でも相当協力してすっきり書いてくれましたよ。その中でもう一つ割り切れないところがありました。マスコミはこれ以上は入っていかれない、行政を叩くようなことはできない、ということでね。

山口:それがマスコミの現実というか、限界というか、そういうところにあるんですよねえ。

村上:そうです。私の知らんあいだに、幽霊の出る島ゆうことになってしまうし。

高橋:あの日本テレビの番組ですか。『週刊金曜日』がとりあげてましたね。

村上:はい。私はあれで相当電話で批判されてね。「あんた、テレビに出たいためになんでもしゃべるんじゃのう」とね。それで、こりゃなんでもこのまま引き下がったんじゃ、ということで、今のこの、<毒ガス島歴史研究所>をつくった。

山口:今の化学兵器戦に対する国際的な批判の流れと、中国で次々と出てきた遺棄弾の問題とで、日本の外交政策上の大きな懸案になってきた。この流れの中で、大久野島の問題を、村上さんが訴えられてきたことが基本筋なんだということで、今また問い直すチャンスではないかと思います。

村上:そうですね、それをね。竹原市では市長以下助役が一番悪い。まったく考えのない人で、そういう人が人権推進本部長じゃけんね。私は協議会の中で誹ぼうされたから、人権推進本部長の助役に告訴したんだ。私からみればもうマスコミに頼るしかない、と思った。しかし、マスコミも限度がある、いうのを聞いてね。だから<毒ガス島歴史研究所>をつくって、歴史は歴史の事実としてきちんとしていく中で啓発していこうと思っている。いずれは行政もなるほどという所がでてくるかもしれない。それを楽しみにしているんです。

高橋:国ももう動かなくてはいけないところまで来ていますからね。

村上:そう、実態はね。だから私もシンポジウムでも、自分の解任を皆さんに話すことができたのですよ。私はつつがなく辞めていったんじゃなくて、こういうことがあって辞めさせられたんだと。だからこれからは、運動の中で生きてゆこうとしてるんだとね。

山口:長野県の松代大本営のあったところでは、慰安所があって、それは強制連行のあった証拠、国内での加害の証拠だということで、松代の女性団体が施設を残そうとして今お金を集めてやっている。そこでも地元で「あんなもの早く潰してしまえ」という力と、「いや、なんとか残そう」という力とがある。その活動の中心になっていた女性は、強制連行された韓国人と日本人との間に生まれた人で、その人の中では被害と加害が一つの体のなかにあるという。彼女にとっては「このふたつが私の存在そのものなんだ」と、それが彼女の活動のちからになっていたんだと思います。残念なことについ最近亡くなったんですが、彼女のことを取材していた新聞記者たちは、ただ書くだけじゃだめなんだ、と運動の中に入っていった。「証拠は絶対に潰してはいけない」ということですね。


■−なぜあのとき国が徹底して成分検査をやらなかったのか

村上:それで、今回のヒ素の問題から考えるんですが、昭和47年の5月にこの北側の海岸からイペリットとルイサイトの容器が出たという事件が起きて、そのときはマスコミも100人くらい来て、大きく広がったんです。どうして広がったかというと、あそこを海水浴場にするのに建築業者が入って護岸工事をやった。その工事のときに容器が出たんです。ところが、それをまた埋めたんですよ。これを騒いだら大変なことになると、業者が隠したんです。ところが、作業員が後になって、私にはこういう事があって、その時に目がチカチカして喉が痛んで、と話したのを、マスコミが書いたんです。それから事件になった。護岸工事は終わっているし、今度はその容器を捜さなきゃいけんということで。とうとう造った護岸をまた壊して掘り出したですよ。もうほとんど腐食してましたけれどね。

山口:そのときはもう休暇村はできてましたよね。

村上:そうなんです。昭和46年に環境庁ができて、環境庁の仕事初めみたいなものでしたから。環境庁から役人が来ましたですよ。その時、私は役所で公害係長でした。私も島へ県の職員と二日泊まって、成り行きを全部こちらに報告しましたから、その問題は全部知っていました。休暇村が始まって10年が経ってまだこういう事件が起きるか、と思いましたね。その10年の間にもいろんな事件が起こったんですよ、毒ガスの問題で。漁業者が毒ガス容器を引っかけてきたとかね。島内の旧防空壕の中から、<あか筒>が出たとか。それで、これは休暇村が成り立っていけんのじゃないかと、「危険だから毒ガス関係の物は全部取り除いてくれ」と行政から国に陳情に行ったんです。そんなことがあったもんだから、昭和46年頃に自衛隊などが来て、根こそぎ(工場のコンクリートの基礎まで)取り払うという作業をやって、今の16面のテニスコートが出来ているんです。

高橋:そのとき自衛隊がきたということは、それだけ危険だから業者に頼めなかったということですか。

村上:業者に頼んでも、費用は相当かかるし危険だったからでしょう。

山口:それは国の責任でやったんでしょう。竹原市ではなくて。

村上:そうです。国としてやったんです。だから、今回のヒ素が出たとき、なぜあのとき国が徹底して成分検査をやらなかったのかと思いました。それから昭和35年ですよ、厚生省が島を休暇村に指定したのは。そのときにも、成分検査はやっていないんです。

高橋:やったけど、結果を公表しないだけということではなかったのですか。

村上:いいえ、やってないと思います。それで、その昭和35年の指定は何を裏付けにしたかというと、戦後間もなくの、昭和21年5月から22年5月の1年間、米英の軍隊があそこへ進駐してきて毒ガスの処理をやったですよ。それを信頼して国民休暇村にしたんでしょう。

山口:そこがやっぱりおかしいと思うんですよ。

村上:ええ。米軍の報告書を吉見先生からもらって、それを1年半かかって大阪の団体(平和問題懇和会)に翻訳してもらったんです。その中を読んでも成分検査をしたとは書いてないです。ただ取り除く一方で。米軍が半年かかって取り除いて海洋投棄して、そのあと工場施設なんかはオーストラリア軍が壊して処理したんです。それで終わったとした。オーストラリアは3年の時間をかけてやろうとしたが、アメリカはオーストラリアに猛毒を扱う将校がいないことから半年でやれといった。

高橋:島を休暇村にするときには、竹原市からの要望があったそうですが。

村上:そりゃあ、ありました。

高橋:どちらかというと、市の希望の方が大きかったということですか。

村上:大きかった。毒ガス工場建設の時も行政が陳情した。大久野島へ工場ができるっていうんでみんな喜んだ。それが毒ガス工場だったんでしょう。で、今度戦争が終わって毒ガス工場が去った。そしたら、徹底的に毒ガスを取り除いてくれゆうのは人情ですな、そこをうまく利用したのが行政側ですな。
山口:普通に考えると休暇村にふさわしくない場所だと思うんですね。そのことを知ればみんな来なくなるんじゃないかと思うのに何故つくったのか。国の側に毒ガスの歴史を隠したいという意思があったのでは、ということをすごく感じるんですよ。結局国はずっと認めていない。その間臭いものには蓋をするというかたちで、毒ガスの島よりも国民休暇村のイメージを出してしまうことで、国は追及されなくて済むということだったんじゃないか。その辺で、何故あそこに国民休暇村ができたか、ということの謎があると思うんです。

村上:そうですね。これは国の回顧録をみなくちゃ判らない。何故国が休暇村の指定をしたのか。ここから始まると思う。それは、今回のヒ素の成分検査に繋がると思うね。


■−海洋投棄にもまた問題がある。この棄て方にまた問題がある。

山口:その辺はまだ、明らかにした人はいないですか。

村上:いないです。これは昭和58年か59年の朝日新聞で読んだことがあるが、慶応義塾大学の先生が資料を発見した。この資料で、戦後間もなく厚木飛行場にマッカーサーが到着した、その3週間後にGHQの事情聴取があった、化学兵器調査のです。そのやり取りは調書が残っていて、新宿戸山ケ原の第6研の秋山少将が答えたものだった。毒ガスの種類とかね、とにかく化学兵器に関する資料を全部アメリカに提供しています、この日に。これが9月のいつだったかな。

山口:19日か20日ですよね。

村上:うん。それでその頃大久野島ではどうかしたかというとね、米軍が来とるんですよ。9月の20日か。東京でGHQが事情聴取をやると同時に大久野島へは130人あまり来ているんですよ。将校が。進駐して。それですぐ翌日かなんかに米軍の化学隊第8軍が来てそこで調査したらしい。その副隊長が来たときに、オーストラリアの軍隊もここに来て、貯蔵量がどのくらいか、どうやって処理するか、を検討してますね。その検討会議のときにオーストラリア軍は「これだけの物を処理するのであれば、毒を全て取り除いてから、建物も全部取り壊して、2年。あとの1年で除毒作業をやると、3年はかかる」と言ったんです。しかし米軍は、除毒を半年でやり後の半年で処理をやるといったんです。やり方はといえば海洋投棄です。こんな大まかなやり方はないですね。

 海洋投棄にもまた問題がある。この棄て方にまた問題がある。土佐沖に北緯何度、東経何度といってね。米軍の報告と、服部忠さんの報告と、処理を請け負った帝人三原の報告と。もう一つあるんだ、当時の毒ガス工場の山中所長が漁協に話してるのもある。その4者4様の状況を聞いてみると、これがおかしいんですわ。投棄した位置が違うんです。服部さんは最後の投棄の船に山中所長と一緒に乗っているんです。しかし、最後まで船の上にいなかった。台風にあって、避難したんですね。宿毛湾へ何日間か。そこで給油するんですね。土佐の高知で。そこで「もう帰ってこい」ゆう命令の電報が来たんです。そこで服部さんは帰ったんです。で、投棄したのはその後で、服部さんの報告は謎があるんです。
土佐の高知の栗原透氏元参議院議員が、調べたいと一生懸命やっているんですが、その中で一箇所は日向灘のね、宮崎の沖に海没しているのが判ったというんです。山中さんが漁協に語ったのは、宇和島の沖でひとつは沈んだいうんです。

高橋:投棄は、一回だけではなかったですよね。

村上:3回。服部さんが書いとる記事は、3回のうち1回と2回を1回分に書いて「第2回に私は乗りました」と言ってる。あの人が第2回目いうのは、3回目のこと。それで、記述に曖昧な点があるんですよね。北海道の屈斜路湖がこの秋に揚げるんでしょ、それでどういう動きがでるのか。それからですね、太平洋のほうは。「太平洋は水深4キロの海底に沈んでいるから大丈夫」ということだったが、本当に大丈夫なのか。そしてまた海没船かどうなのか、これもはっきり判らん。
 
 それを明らかにする会を「村上さん、あんたやってくれ」って云われたんですよ、栗原さんに。今それを考えるどころじゃない思うたけど、しかし、これをどうするか。この研究所の皆さんと一度協議しようと思うとります。

山口:この投棄の過程がはっきりしないというのも、例えば毒ガスの一部をどこかにそのまま置いてきて船だけ戻ってきて棄てたとしているとか、そういう可能性もあるんじゃないですか。

村上:そりゃあ、あるね。服部さんが言ってるのがどうも怪しい。その船が大久野島を出航してから戻るまで20日間かかってる。新屯丸いう日本の船ですがね。これもまた服部さんは―――4000トンいうとるんですが、ある記述をみると2000トンと書いてある。まあ曖昧なところがあるんです。だから、高知港に滞留していたとき、処理本部から帰ってきなさいと言われて帰って、もう一人、「先生」と書いてあるからお医者さんじゃないかと思うんですがね、帰っているんです。

高橋:服部さんは最初から工場にいたんですよね。

村上:ええ、あの人は岡山工業の化学部を出て、私らの今度の研究所の顧問にもなっているんです。


■−今回のヒ素の問題は、行政はどこまで責任を持つのか

山口:その後、島に残った薬品もあるわけですけれども、残った分がどのように処理されたか、残留した分の成分が島にどれくらい残っているのか、ハッキリしていなくて、そのあとずっと調査もしないままで、1960年に国民休暇村に指定された。その指定する段階で当然やらなくてはいけないのが再検査ですよね、これをやったのかやらなかったのか、これは大きな問題ですよね。もし、やってないとすればこのときの環境庁はいったい何を考えていたのか。

村上:そうですね。そういう一連の内容を調べる必要はありますね。私はね、今、思いますよ。この4月で国民休暇村の「国民」をのけてね「休暇村大久野島」にしたんですよ。休暇村協会が運営しているんです。だいたいね、ヒ素は休暇村にとっては死活問題でしょ。だったらもうむこう何か月間休業をして、徹底的に調査をしてもらって、それで新しい大久野島に生まれ変わって皆さんを迎えたい、いうのが本筋でしょう。それをせんといて地元の行政もしかりでしょう。「休暇村があそこにあるから」といって。じゃあ休暇村があるから今まで(調査を)せんといたんか。

山口:休暇村が毒ガス隠しに使われてきた可能性というのは、やっぱりその60年当時にあるんじゃないかという気がするんですよね。

村上:そうなんです。それを誰が調べて今の世の中に出すのかいうんですよ。

高橋:ここに持ってきたときは議会なんかで話されているんでしょうね。

村上:ここへ持ってきたときは忠海町でした。忠海町で合併したのは昭和33年でしたから。忠海町長が誘致したんです。で、昭和33年に合併したでしょう、それで35年に厚生省が指定したんですから、その運動は今度は竹原市になったんです。

 わしもその頃行政におって、休暇村ができるように大いにやったんです。忠海支所で商工係を私はやりおったから。市の助役と二人で、指定になったあと見学に山口県あたりから来た人を案内して行ったですよ。商工係をやっていたのは昭和34年から38年頃まで5年間やりましたから。38年にここは休暇村になりました。そのときに地元の商工振興会いうのがあって、いろんな商売の人がいて、大久野島が観光の島になるからといって非常に期待したんですよ。しかし、地元では一切仕入れはしなかった。それはせんですよね、ここは小売はあっても卸の業者はいなかったんですから。島には一切民間は入れないですよ。財団法人休暇村協会がやっているんですから。民間業者を入れてくれと議会の中にもあったらしいですがね。

高橋:村上さんはその頃仕事でよく島を訪ねるようになって、かつての島をよく知っていたわけで、危ない島という感じはやはり持っておられた訳ですよね。

村上:そりゃありました。休暇村になったとはいいながら臭いはありましたからね。当時もまだありましたよ。これで大丈夫なんじゃろうか、ってね。今でもあるけれどね。だから、今回ヒ素問題がでたときに、当然のことじゃ、言うたらね、休暇村の支配人が怒ったんです。

山口:誘致したときはまだ15年しか経ってないわけですよね。かなり早いと思うんですけれども。村上さんはやっぱり商工係としては誘致する立場にあるんですよね。しかし、体験と記憶の中ではまだあれは危険な島だと。だから「あれは元は毒ガスの島なんだけれども、今はもうすっかり安全で奇麗な島になって」なんてことは言えないわけですよね。

村上:それは、自分みずからは言えんわい。

山口:そうですよね。

村上:行政の立場でやっていたことですから。それでね、今回の加害者の問題で市の職員はこんなことを言った。「行政としては、国が毒ガス戦争を認めてないんだから、その認めてない政府の流れに行政はあるから、加害性は言えない」。そしたら、行政は休暇村をすすめる、我々はとやかく言うことはできんのかい、ということなのか。それなら今回のヒ素の問題は、行政はどこまで責任を持つのか。市から県へ、県知事は国に、徹底的な対策を取るようにしてもらうと言っている。果たしてどのような対策をするのか。

山口:結局は、地方自治というのではなく下請けという感覚しかない。何でも陳情してやってもらうか、その代り何かあっても文句は言いませんという、そういう下請け感覚なんですね。

村上:ええ、これも約まるところは、去年、広島の宇品出島にジフェニールアルシン酸が出て、それを県が処理することに30億の予算をかけることになって、そこからはじまった。その物質が一体何なのかいうことになって、これは実はジフェニールアルシン酸といって、ヒ素の原料であると。これが大久野島でくしゃみ性の毒ガスをつくった、その原料であったわけですよ。それじゃ大久野島はどうなっているのかと。それで環境庁が調べたんですよ。去年の3月に。私は去年の3月まだあそこに勤めていて、そういえば、変った作業服の人が来とるなあ、と。私らにはまったく知らされないですよ。休暇村も私らには何にも教えない。支配人は知っとっただろうけど。行政も「知らなんだ」言うて。

高橋:竹原市もまったく知らなかったんですか。去年のその調査の結果は発表してないんですよね。

村上:マスコミがそれを追及したんだが、総合的な資料が完全に出てから発表しようと思っていたと言ってね。そういう一連のものを並べて、皆さんが理解できるようなものを作りたいと思うんだがね。ところがね、それもマスコミはあまりせんね。所どころだけ取ってね。「こんなのありましたよ」と、一過性の記事だけで。昭和47年の5月の時でも、内容液を検査するのに東京の国立衛生研究所に持って行って試験するいうて、その結果が「毒ガス成分は検出されませんでした」いう通知だけだった。その時も併せて、「全島安全宣言をやってくださいよ」と国に言うとるはず。あそこを休暇村にした時も「全島安全ですよ」いうのは新聞でも何でも見たことない。記憶にないですよ。いろんな問題が出てもただ、こんなのありましたよ、というだけなんですよね。今回のように30数ヶ所も成分検査までしたいうのは初めて。

高橋:休暇村を建てたときの工事でも一人亡くなっていますよね。あのときはどうだったんですか。

村上:さあ、わしはよく解らん。新聞ざたにはなってるでしょう。

山口:やはり、あそこを休暇村にするというのに無理があったような気がしますねえ。わざわざあそこにする必要ないですものね。

村上:そりゃ、ないですよ。それを地元から要請があってしたと、今の国は言うかもしれん。

山口:国は要請した形を取らせますからね。国の側が工作してやろうと思えばできますよね。

村上:休暇村も第3回の改装をやったんだが、やっぱりこういう毒ガス工場の島だから、お客さんが来んようになると思いますよ、私らは。あんな立派なシャンデリアいっぱい付けてリゾート改装ゆうてやっても、ヒ素の問題がでた大久野島眺めたら、やっぱり毒ガスの臭いがするような大久野島かい、思いますよ。今は臭いはないけどね。もしかしたら、あるかもしらん。リゾートの休暇村いうてもなあ、やっぱり毒ガス工場の島じゃ思う。垢抜けせん。

山口:毒ガスの事が表にでたら客が減るとか、そんな次元の話じゃないですね。

村上:それどこじゃないんですよ。今、一番大切なときですからね。

山口:それこそ、もう全部一時ストップしてやるべきなんですよね。


■−ガバッと壊して土で埋めて終わろう思いよったんじゃろ。

村上:私が言いたいのは、大久野島を遺跡保存いうような運動も起こらんとしてるんですが、ハッキリさせる前に何が遺跡保存ですか。ややもすりゃあ、毒ガス問題が起こるんでしょう。それに対してはっきり、すっきりさせにゃあ答えだせんのでしょう。これが毒ガス島であったいうことが一つあるから、安全だいうことがよう言わんのやな。全島検査せい、言うてもどこまでどうしたらいいのかわからんから、出せんのじゃろうが。そういう島でしょう。

高橋:今、残っている発電所跡なんかは、誰が残そうとしてるんですか。

村上:残そういうんでなくて、潰れるまで放ってある。休暇村をリゾート改造したときに、木を一本切るのにもウルサイ環境庁が、山をごっそり削って改造をしたでしょ。その土であそこを埋めようとしたんです。

高橋:今、あの発電所の裏に土が山盛りになっているのがそれですか。

村上:そう、あれが埋めようとした土。環境庁も壊す壊すいいながら、予算化してなかったんじゃないかと思うんですよ。私の憶測ですけどね、あの改造の時に業者とうまく話をして、ガバッと壊して土で埋めて終わろう思いよったんじゃろ。だけど府中の中学生が、発電所を壊すことはそれでなくても少ない遺跡の資料だから、毒ガス製造の規模を知るための遺跡の一つとして残して欲しい、ということで署名運動をやってそれを環境庁にもって行って、それで環境庁がそれを聞いてくれて取り壊し中止になったんです。

 そういうようなことで、これからいったいどうするんかいうことでね。島に見学に行ったって「入らんで下さい」いう所ばかりで。貯蔵庫だって、「危険につき入らんでください」と看板がたっとる。何がこれで遺跡保存か。国はそういう考えは全然持っとらん。私らあそこで話するんでも、何か気が抜けたような感じでね。だから、今私が行っても支配人はいい顔しないですよ。この野郎思いよるじゃけん。

高橋:支配人は外から来た人ですよね。

村上:そうそう、だから私になにか言うたら、「あんた外から来て、何をいうかいな」とね、言うてやろうと思うてるけど、面と向かったらよう言わんのよね、わしはまだ。(笑い)

山口:ああいうヒ素が出たということで修学旅行なんかは中止になったんですね。それで、今まで苦々しく思っていた学校の校長先生なんかは、これ幸いとばかりに思っているんでしょうね。

村上:うん。これ幸いとばかりにね。ヒ素ゆうとね、それを余計思うんでしょう。大久野島はヒ素だけれども、竹原市いうところは六価クロムの問題があったんですよ。昭和48年頃。私が公害係をやっていた頃ね。これもひどかったんですよ。三井の精錬工場があるんですよ。そこが廃剤を棄てていたんですよ。それで三井の社宅やなんかを埋め立てしたから、雨が降ると六価クロムが真っ黄色になって浮いて出るんですよ。その問題は六価クロムで障害の出た人が労災の適用になったことから、問題になった。その対策は<封じ込め対策>でね、この付近が汚染されてますいいうたら、幅40センチ長さ25メートルくらいの鉄の板をダーっとすき間なく打って、遮断しちゃうんですよ、地下水と。それで上はアスファルトでやりました。そういう対策をやったんです。で、大久野島もそういう対策をやるのか、あるいは土だけを外に出すのか。まあこれは駄目だね。

高橋:新聞にはコンクリートで固めるなんてありました。

村上:あれも一つの<封じ込め>でしょう。

高橋:あそこにまだどれくらい埋っているか調べるという発想はないんでしょうかね。

村上:はは、ないんじゃろう。

山口:当時、どさくさに紛れて埋めて隠そうとしたのがあるんですよね。

村上:そりゃありましょう。知らんだけでね。

高橋:広島市内で出たのは、業者に払い下げた原料を業者がどうにもできずに埋めたものとか。

山口:島の周りの海の底にもあるんじゃないでしょうか。

村上:そりゃあね、判らんですよ。この島の付近にいろいろ廃材とか棄てとるんじゃろう、時々漁網にかかって揚がってくるんじゃけど。昭和46年頃にね、ひっきりなしに揚がってきたんですよ。ところがその年を限りになくなった。だからもうなくなったんか思ったら、そうじゃないんですよ。漁業者はそれを一旦船に揚げて持って帰る、それ通知を受ける、新聞記者と一緒に行く、写真に写す、こっちは自衛隊に連絡する、自衛隊から来て、すぐその現場でコンクリート詰めにする、コンクリートが固まった頃に持って帰る。それを今度海上自衛隊では、日向灘に持って行って埋める。潜水艦で持って行くなんて聞いたけれどね。そういうようなことをやってね、漁業者はそれを持って来て何にも補償がないからね。千葉の方は違うらしいね。それを持ってくると何十万円かくれるんでしょう、漁業補償で。で、海上保安庁はそれをもっと深いところへ引っぱってゆくらしいね。ああいうものは、やれば出るんでしょう。いっくらでもね。
今プールがある所は、<あか筒>をつくる工場があったすぐ側ですよ。どちらかといえば、プールがあるところのほうが(ヒ素を原料とした<あか>を製造していたので)出る思うんですが、プールを造ってしまったから、検体を検出できんのでしょう。

高橋:プールはいつ頃できたんですか。その工事のときに事故はなかったんでしょうか。

村上:いつ頃でしょうなあ。あれでも床堀りはやってますからね。

山口:砲弾が出たかどうかというより、土そのものが危なかったんでしょうね。

村上:まあ、その時も恐らく成分検査なんかやっちゃいないですよ。

山口:その危険性を感じてないわけですか。

村上:感じてないですよ。まず危険性を感じてない。大丈夫いうことでしょう。


■−環境庁や厚生省や大蔵省が具体的に何を考えてどうしたのか

山口:そういう危険性そのものを隠してしまって、戦後アメリカもその毒性を隠してしまって、それが危険だとは言えないわけでしょう。

村上:それもそうだねえ。それを危険だ言うのもおかしいね。

山口:そうすると、休暇村を建設のときにも、危険性を徹底的に検査することはタテマエとしてはできないわけですね。ですから、この大久野島の歴史を眺めてみれば、一貫性がありますよね。隠そうとする意思がありますよね。

村上:そうですね。隠そうとする流れのなかで、私が言い出したもんだから、また隠そうとしているんです。

高橋:でも、もうそろそろ隠しきれなくなってきましたよね。中国でもたくさん出てるし、ヒ素も出るし、化学兵器禁止条約が発効すれば、政府も処理を始めなくてはいけないですから。もう、認めるも同然ですね。

山口:休暇村を造るときに、環境庁や厚生省や大蔵省が具体的に何を考えてどうしたのか、できるだけ資料を捜して、その辺が判れば少しは違いますね。

村上:そうですね。そういう資料が欲しいですね。今までの本の中にもそこはないね。こりゃね鍵ですよ。それさえ出たら繋がりができて、ざっとクローズアップできますよ。

高橋:市と県と中央の資料があればよくわかるんですけれどね。

村上:市のほうも「無い」言いますがね、本当に無いのかどうか。あるとき、女子学生が資料館で一生懸命書き写しよるんです。聞いてみると、県庁へ行って大久野島の資料はありませんかと聞いたら無いと言われた、と言ってました。

 帝人にね、県知事が感謝状を出しているんですから。戦後の処理を請け負ったね。そりゃあ、報告書があるかもしれない。口頭で「終わりました」言う報告だけで、県知事が「そうか、よくやった」言うて感謝状を出すわけないですから。一連の報告をしてるはずです。


■−25年に朝鮮動乱が起きて、今度はアメリカが接収したんです。

山口:休暇村ができるまでは、あそこは誰も住んでいない状態だったんですか。

村上:休暇村ができるまでのことで私が知ってる範囲の事は、こうです。
 
 まず敗戦になって、毒ガスの処理を進駐軍がやりましたでしょ。それが終わったのは昭和22年の5月27日ですからね。それから、大蔵省が管理したんですよ。そして、25年に大久野島付近が島も含めて国立公園になった。そしたら、25年に朝鮮動乱が起きて、今度はアメリカが接収したんです。それで昭和31年まで使いまして、31年に返還されて、大蔵省がまたもったんです。そのあと、32年か34年頃か、私がまだ町役場にいた頃、役場の職員が二人ずつ大久野島に当直にいっとる。大蔵省の管轄で中国財務局が管理していたんです。財務局が地元の行政に委託したんでしょう。それで、守衛はおらんし、職員が夜当直するんです。そういうことをね、当分やりました。毎日交代で二人ずつ行くんです。当時まだ建物は軍隊舎がありましたよ。残ってた。そういう中で、今度昭和35年に国民休暇村いうことにいよいよなりましたよ。

山口:ものすごく唐突な感じですよね。昭和31年までアメリカが朝鮮戦争で使って、そのときはまだ毒ガスの島ということでしたよね。それがわずか4年くらいで休暇村になるわけですよね。

村上:これも地元からの要望でそうなった、いうことになっているんだから。そして35年に指定されて、36年から集団施設の工事が始まって、38年に休暇村として発足してますね。

山口:誰が言い出したかわかんないですね。

村上:昭和38年の起工式の時に私も市長に出ろいわれて出ましたから、その時の写真が何処かにあるでしょ。そのときにはもう竹原市になってますからね。

高橋:休暇村の工事を請け負ったのは地元の業者だったんでしょうか。

村上:親請けは地元じゃないね。地元は下請けの孫請けくらい。今度のリゾート改造でも、鴻池だからね。

高橋:その孫請けの地元の業者で働いた人なんかが、何か当時のガスの臭いの話だとかしてることはないんですか。

山口:でも、知らされずに工事をさせられたこともあったでしょうね。

村上:このリゾート改造のときには、工事現場は立ち入り禁止になって、トタンをずっーと張り巡らして工事をしたんです。

山口:地下水もあそこを掘って工事したんでしょ。

村上:そうですよ。温泉水は別にボーリングして20メートルくらい掘って。あれは1日40トンくらい出るといいますからね。渇水の頃でもこれは出よったです。

山口:そういう水質検査は絶対にやらなくてはいけないですよね。

村上:絶対やらなきゃ駄目ですいうてもね、温泉は温泉に係る調査項目があるんですよ。

山口:泉質を調べるだけですか。安全性は調べないんですか。

村上:うん。泉質を調べるんですよ。その中でも例えばリウマチとか神経痛だとかに効きますというね。その効能はね、含有量によって決まるんですから。温泉基準だけみるんですよ。その検査をしとりゃあするんだけれども。今回のようにヒ素のような毒性のあるものをそこらから採って分析して、というもんじゃないですからね。去年の環境庁がやったのは、まず土の含有量、それから水のね。そしてもう一つは溶質試験ゆうのがあるよね。土の中のヒ素の成分が1リットル中何ミリくらい残っているかという。

山口:何にも知らないで、その休暇村に来た人達はその水を飲んでいるんですよね。

村上:そりゃ、飲んでいるんですよ。私は資料館館長になったときに、水質を調べましたよ。非公式にね。自分で銭を出すのは馬鹿らしいから市の公害課にちょっとやってくれと頼んでね。これは飲料水試験をやったんです。それと土壌の含有量は、リゾートの工事やりよった頃に掘っておったから、そこからさっと1キロくらい盗んでね、検査やってもろうたけどね。そのときは自然の数値でね。


■−「大久野島はあんなもんつくるんかい、こりゃあ勇ましい所じゃのう」

高橋:あと少しだけ、村上さんが働いてらした頃の話を聞かせてください。

村上:昭和15年の4月1日にあそこへ入ったんです。15年の1月頃、学校に、大久野島から募集にきました。まあ、私はその頃は大久野島へ非常に憧れをもっていました。どうしてかいうたら、小学校の5年生頃から運動会のプログラムの中に、戦争ごっこがあったんですよ。これは勇ましい競技でね、兵隊の服装をして、子供が、二派に分かれて撃ちあう格好をしながらやるんですよ。そのときに煙幕いうてね、白い煙がもくもくとでる武器があるんです。その煙幕がどんどん広がって見えなくなった頃に攻めて行くんです。で、煙幕が消えた頃に相手がみえますわね、そこで「突っ込め」いうてね、行くんですわ。終るとね、校長さんが評価してくれるんです。軍隊が本当に使うものでやったんですよ。これは勇ましかろう。それで運動会が済んで、「先生、煙幕いうもんはすごい勇ましかったねえ。あれは先生どれぐらいするもんですか、安いんですか、高いんですか、何処で買うんですか」いうてね。そしたら先生がその時に、「あれは大久野島でくれるんじゃ」言うてね。これは感心したよ、みんなね。「ほお、大久野島はあんなもんつくるんかい、こりゃあ勇ましい所じゃのう」言うてね。それが今度、高等小学校にあがって、それでもまだ運動会でやったんですよ。これが戦争教育じゃね。戦争の勇ましさいうのしか残ってないもんだから、そこへ大久野島から、中尉じゃったかなあ、偉い人がドーンと来て、大久野島で養成工を募集しとるいうんじゃから。こりゃ断然行こう、思うたよ。

高橋:そのとき何人くらい行ったんですか。

村上:私らの学校から12人くらい行きましたね。この近郷の学校から60人入りましたが、私らの学校が地元で一番多かったでしょう。忠海尋常高等小学校。そしてね、今では小高い丘のキャンプ場になっていますがね、そこに養成所があってね。私らが第一期生だったんです。

高橋:1日の時間割というのはどんなだったんですか。

村上:授業は8時から始まって、午前中は前段・後段に分かれていて2時間ずつの教科でね、午後は工場実習という繰り返しで、春と夏、冬は休みがやっぱりあったです。こりゃあ、いいじゃないかという。教官は殆ど軍人の少尉以上でしたわ。

高橋:講義は専門的な化学の分野だったんですか。

村上:教科は、工業学科、普通科と教練科いうのがあったですね。普通科はやっぱり、国語、算数、地理、歴史でね。工業科はやっぱり化学が多いですね。まあ、機械工学とか難しいのもありましたね。化学教科がね、製造化学いうのんがあって、応用化学いうのがあったり、もう一つ兵器学ゆうのんがある。こういう化学の方が主になってましたよね。その兵器学いう中で、毒ガスの製造のしかたなんかがでてきた。毒ガスいう名称は、あまり使わんでしたよね。化学兵器いう名称でやってましたから。毒ガスの名称も、色で表示してましたですね。<きい1号>とか<あか1号>とかね。だいたいそれで毒ガスの成分的なものが判るようにしてましたですねえ。<きい>いうたらびらん性、<あか>いうたらシアンね。あるいは刺激性とかいいますけどね。催涙性いうたら<みどり>とか。

高橋:午後の実習はどんなことをやったんですか。

村上:午後の実習になると、一年生の時は見学程度で、女工員の働いてる工場でその人達がやる程度のものでしたね。それもまあ午後1時から3時までの間で、3時にはもう引き上げて、その後は教練があったり、共済組合法をやったりね。中堅工員の養成ですからね。軍機保護法いうのが難しかったね。秘密の防諜関係をね。もう一つ変った教育が、兵器学の中で「化学兵器は人道兵器である」という教育があって、今でも一番印象に残ってますよ。この持論は、通常兵器と化学兵器を比較したら、通常兵器は命中したら必ず死ぬ、死なんにしても流血の惨状。で、化学兵器いうものは広範囲に渡ってこれを使って一時中毒を起こさせる。それで戦闘能力を低下させるのが目的である、と。そういうことを言われると「なるほどそうか」と思います。これを繰り返し授業で教えましたから、その気になりましたね。


■−顔の色が黒く変色しているのがね、最初はそれを見るのが恐ろしかったですね。

高橋:そのころ、島の中でガスにやられた人を見たりしなかったですか。

村上:そりゃね、今だったら人権学習もやっているから矛盾も感じるでしょうが、そのころは矛盾は感じても絶対に言えないですからね。そんな馬鹿なことが、思うてもそれは口には出せん。不合理があってもそれを正すことができない時代ですからね。軍罰いうもんがあって、それで縛られますからね。

山口:島で被毒しても、国のために仕方がない、尊い犠牲みたいな感覚でいたんですね。

村上:犠牲になるいうことが名誉じゃったもの。今は犠牲いう言葉はないにも等しいでしょう。その当時は犠牲いうことが、男子の本懐というようなね。「男子の本懐これに優るものはありません」ゆうてやりましたもの。いまそんなことやったら、「あれ、あほじゃないかい」言われますけど。(笑い)

山口:しかし、「男子の本懐」というのは国にとってみればいい言葉ですよね、。あれでみんなだまされたんですから。

村上:それはもう、それを言わすんですからね。その時代は、そういう為に教育して、そういう為に生きてゆくんじゃ思うとったから。

山口:怖さはなかったですか。

村上:怖さはなかったです。しかし、それも表面的なもんで、実際に自分が傷害を受けて怪我をしたりして、お医者に行って、初めて恐ろしいと思うんです。水泡ができて治療してもらいながらね。

高橋:それは入っていつ頃になってからですか。

村上:2年生になってから毒ガス製造工場の現場を知るようになったんですから、その頃からですか。内臓疾患でしょ、ほとんどが。外科の傷を見るんじゃないから。顔の色が黒く変色しているのがね、最初はそれを見るのが恐ろしかったですね。恐怖いうものはそんなになかったな。それは、あの兵器人道論が効いていますからね。うさぎが犠牲になって実験されとったけれども、あたりまえのことじゃのう思うとった。可愛そうとも思わなかった。人間でもこんなになるんだから、あたりまえじゃろうとね。

山口:いまもうさぎがいますね、あれは後で入れたんですか。

村上:あれは休暇村になってから入れたそうです。戦後処理の時にはじめは処分しましたよ。私らはうさぎも喰うたしね、その頃。

山口:そのうさぎも毒ガスの関連みたいなものですよね、実験に使ってたんですから。それをまた休暇村に入れてくるっていう感覚は、うさぎが死んだら危ないという、カナリアみたいなものだったんじゃないですか。

村上:そりゃ、そうかもわからん。

山口:可愛いことは可愛いけれど、大久野島にとって、記憶にしては嫌な記憶ですよね。

村上:そりゃあ、私のほうから考えるとね。今の子供に話したときは、「うさぎがみなさんと話ができるならね、恐らく−私のおじいさんおばあさんは毒ガスの犠牲になった−言うて話すだろう」ってね。実は言いたかっただろう。だから、ここでうさぎを見るたびに思い出される。

山口:それはあれですかね、入れた人たちの気持ちは「思い出してくれ」というものなんですかね、それとも・・・・。

村上:あのね、導入した人に聞いたことがあるけれども、「猿がおったらいいな」言う人もおったし、「鹿がいいな」言う人もおったし、マスコットとしてね、公園に。うさぎならいいじゃろうということでね。毒ガス工場の当時うさぎがいたからというのじゃなかったんです。


■−戦後間もなく、毒ガス工場で働いた人たちが肺結核になってゆく

高橋:養成所は2年ですか。

村上:いや、3年。しかし私らから下級生は、だんだん2年なり、1年なり、半年になってね。私らのときは3年きっちり、良い時代じゃったろ思う。だけどそれ以上に鍛えられたけれどね。もう戦場へ行ってもすぐに使えるように鍛えられましたから。恨めしかったです。

高橋:じゃあ、あそこで働かせるだけが目的ではなくて、将来は戦場へ出て専門の知識を生かせる人材を養成したんですね。

村上:だから、毒ガス関係の専門の知識を持って軍隊にでも行けば、それだけでも結構指導者になれるいうことでね。

高橋:実際にはあそこから軍隊に行った人はいなかったんですか。

村上:いないです。志願して行った人はおるけどね。この人らは「この島で毒ガス吸いながら死ぬよりは軍隊へ行こう」とね。軍隊に行くいう中にはやっぱり自負心があったですね。同級生よりは一段先にね、どうせ軍隊に入りますから、やつらが来る前にわしが古参になっとこういうねえ。まあ、本当に中にはあったね、「こんな所で毒ガス吸いながら死ぬのは馬鹿らしい、いっそ死ぬんなら」というね。死は覚悟しとったですから、私らは。人生わずか20年の最後を、軍隊入ったらもうそれまでじゃ。じゃから、そこらの違いですよ。死いうものはそんなに恐ろしいものじゃなかった。それは自分の為いうことじゃなくて、国の為に死ねることが名誉だったから。これが男子の本懐ですよ。それに優ぐるものはありませんよ。この心情はね、この教育が秘密を守ったんです。それがなかったら、秘密を守ってはなかったですよ。そういうことにならんとこういう罰を受けるよ、とね。

高橋:最初に被毒者の人たちが団体をつくったときは、そのへんの意識はどうなっていたんですか。

村上:被毒者が団体つくったときは、戦後間もなく、毒ガス工場で働いた人たちが肺結核になってゆく、これを恐れたんです。こりゃ次から次からなっていって、その頃は健康保険の制度もなく自費診療でしょ、生活困窮をきたしながら死ぬ。こりゃなんとか国に呼びかけようとなったんです。それを動かしたのは、なんとかして救済してもらおう、国に何とかしてもらおう、ということだったんです。治療を受けてゆく中で、治療をせにゃならんから働けん、食えんから国にその給与を出して貰おう、金を出してもらおう、ということになった。ひとりじゃできんから、組織をつくろういうことになった。そんなことを始めたときは、「そんなんじゃったら国にやってもらおう」いうね。

高橋:じゃあ、そのときは「国の為に働いたんだから」という意識ですね。

村上:そうそう。で、皆その気になったわい。とこらがそれはできんのじゃ。なんとかしてくれんか、そうでなければ死んでしまうわい、といって。で、共済でなんとかということになって。そこでうまく掴んだ者がおるんですよ、傷害者を。「わしが救ってやったんじゃい」いうて。じゃから今、互助会の会長の梶村は町会議員やったり、市会議員やったりしているんでしょう。

高橋:養成所で3年終わると、配属になるんですか。

村上:3年いる間に、職種はもう決まります。電気工、機械工、化学工いうね。3年生になったら自分が配属が決まった所で主に実習をやるんです。

高橋:一方的にですか。

村上:ええ。で、卒業したらそこに配属されていくんです。もう毒ガス工場は3年生でひととおりは入るんですよ。防毒マスクをしてもう全部やるんです。

高橋:最初にその防毒マスクをしたときはどんな気持ちがするんでしょうか。

村上:どんな気持ちかゆうたって、もうこれはしっかり完全に着けんと死ぬるんじゃから、言うて。そのときに初めて、恐怖を感じる。じゃからその時はね、完全にやる。だけどもそこで働いている人たちは毎日でしょ、「そんな完全に安全にいうても、そんなことばっかり考えておったら仕事にならんのじゃ」言いおってねえ。で、先輩というてもね、そこで作業をしている人がどれだけの知識をもっているかいうたらね、あんまりもっていない。

高橋:そういう工員の人たちはどういう経緯で入っているんですか。

村上:いやあ、雑種工で入るんですよ、「大久野島は賃がええ」いうて。日中戦争が始まる前は学歴も問うていたが、それから後はもう学歴問わず、ドーンと人を入れた。

山口:もう実際の工場では、ここだけやればいいという。

村上:うん、そう。それで入るときに旋盤工は旋盤、溶接工は溶接、なにも技術の無い者は雑種工いうて入る、これが毒ガス工場へ入る。

高橋:一番技術の無い人が、危ない所に入るんですね。

村上:で雑種工で入った一週間くらいは、共済組合法の、これ保険制度ですから、やりますよね、陸軍共済組合法や衛生法やら救急法やらね。それから、陸軍工務規定いうのがある。工員としての心得を、一週間くらい教育して、すぐに工場に入る。「あなたは、明日から<あか1号>へ入りなさい」言われてね。で、<あか1号>へ行きますよね。<あか1号>いわれてもどんなだか解らんまま行くんですが。行ったらまず防毒マスクを、毎日それを使うんですよ、言われて渡される。マスクは自分専用だから。でも、物資が欠乏してからはゴム合羽は5人に1人揃えで、共用で使うんですね。そのあと、分液から反応液ができたところで純液と廃液に分かれるところ、あるいは蒸留なら蒸留と役割があってそこへずーっと入る。だから、そこだけは解るわけね。そこからまた別の所へいったら、始めは解らんわね。

高橋:役割の異動はあるんですか。

村上:異動はしょっちゅうはありませんが、2ヵ月くらいはそこにおる。

高橋:身体が悪くなったりしてきたら。

村上:身体が悪くなったら、すぐ医務室。そうせんと、それを我慢して働くことによって休業するいうことは職務怠慢であるとなる。

高橋:休業してはいけないから、すぐに医務室に行くんですか。じゃあ、医務室に行ってもそのまま休めるわけではないんですね。村上さんも具合が悪くなったことはあるんですか。

村上:何遍もある。たいてい風邪ひき。風邪ひきいうんじゃけれども、急性気管支炎。内科関係は、ほとんど急性気管支炎ですね。冬場は特に多いですね。冬場はもうたいてい診療打ち切りになる。午前中140名になったら診療打ち切りになるね。

高橋:薬といったってそんなにないんじゃないですか。

村上:薬はある。咳どめが。その頃の咳どめは水溶性で甘いような。シロップですね。じゃからその薬をたいてい下げて帰る。いまでも、まんがに描いたらたいてい咳どめを下げて帰るまんがを描くじゃろね。横着して、夜遊びして翌日大儀でしょ、医務室へ行くんです。具合悪いいうて。看護婦さんがたいてい体温計でなんぼですかと聞きにくるから、かーっとこすって39度くらいにあげて、看護婦も知ってるよね、でも何も言わん。ところが本当に熱が出たときは休業いうてね、給料はくれるんですよ。内科だったら3日くらい休めるんですよ。こりゃあ、もっけの幸い。給料貰いながら休めるんですからね。大したことないのに、思うんですが、それがいけんのです。そういうのが2・3ヵ月おきになるようになると、危ないんです。

高橋:戦後すぐにはそういう人たちはどうだったんですか。

村上:戦後すぐには、そういう診てもらわんといけん人が毎日いっぱいおったですよ。ところが、敗戦と同時に病院が打ち切りとなったんです。だから治療できんでしょ。外科だったらね毎日包帯替えたりせなならんでしょ、内科はそんな毎日行きませんよね。

高橋:具合が悪くなると、こっちの町の開業医のところへ行くんですか。

村上:うん。開業医のところへかからないけんでしょ。今度は実費でしょ。それでもう仕事もできずにブラブラしてたから、ブラブラ病いってね。そういうことがずっと続いたから、こりゃ大変なことになるな、いうてね。私はその頃はまだ22、3歳でしたから、元気で、そんなことあるかい思ってね。だけども次から次から人が死んでゆきよるから、心配でしたね。せっかくここまで生きて来たのに、と。淋しさはあったね、若いいうても。


■−「私らこれをコソッと持っとる」いうて。それ何いうたら、これは青酸カリじゃいうて。

村上:とにかく8月15日いうのはね、何ともいえん一日だった。午後、あの昼間、天皇陛下の話を聞いてから、うれしいのやら、残念なのやら、安心したような、なんとも言えなかった。どちらかといえば、一番最初に「助かったなあ」思った。

高橋:その翌日からはどうしたんですか。

村上:その日の夕方までには会報で、けれども明日はいつも通りに出勤しなさい、といわれて。しかも、私らは無条件降伏いうのは考えていなかった、本土決戦じゃろ思うとったから、「ああ、いよいよ本土決戦やれいうことじゃなあ」と思って。これで日本も玉砕なのかとね。「無条件降伏なんじゃ」といわれて、「そういう放送じゃったんかい」と思った。

高橋:よく聞こえなかったんですね。

山口:いや、全部読んでも「降伏」なんてどこにも書いてないですね。「耐え難きを耐え」ですからね。

村上:耐え難きを耐え、いうのは解ったから、本土決戦じゃ思った。もうそうなったら、わしは最後じゃからやれることをやったろ、思うて。玉砕じゃからね。そしたら、無条件降伏じゃいうから、これはもっと悪いじゃないか、どうなるんじゃろ、ってね。

高橋:そのときすぐに、毒ガス島で働いてたことで怖くならなかったですか。

村上:そういう意識はないね。どこへ逃げるかのう、じゃった。

高橋:じゃあ、戦犯になるとかそんなことは思わなかったですか。

村上:それはね、一週間くらい後で仕事もないのに毎日出勤させられて、何をすればいいんかいのう思ってたら、「<ちゃ1号>の装置を解体しなさい」言われたんだけれども、反対する者が大勢いて。そんなものを今からやって怪我したら馬鹿をみるといって。しかも<ちゃ1号>はサイロームですからね。そのときに、島にはエチルアルコールがたくさんあったんですよ。エチレンガスをつくるのにね。99%くらいのおいしいのがね。おいしいですよ、これは。ちょっと飲み始めは甘いんですよ。ピリっとしてね。酒飲みにはもうどうにもならんくらいおいしい。敗戦になって島に行くんだけれども、やることがないから、工員でも皆んな分けてくれるんですよ。はなはだしいのはつまみをもってきてるんですよ。(笑い)だしじゃこかなんかね。できあがったのもおるし。

高橋:敗戦になっても出勤するように、というのはみんながばらばらになってしまわないようにですか。
村上:そうです。そのうちどうやって収拾をつけるのか解らなかったんでしょ。

高橋:最終的には、9月11日ですか、解雇になったのは。

村上:手帳を見るとね、私らは「解用」となってるね。それで、<ちゃ1号>の解体を命じられた時に私らの係りの「向井」いう偉い技師の人がおって、その人から「君たちの中に、アルコールを飲んでいる者がいるが、こういうことは非常に危険だから、あれにはメチルという成分が入っていて、メチルは死ぬぞ、そんなことはするな」と言ったんです。日本人なら潔う堂々としておいてくれ、とね。そのときにね、言いましたよ、「君らは毒ガスを製造してきたんだから、駐留軍に拘束されるかもしれない」ってね。「万が一そういうことがあっても、君たちは技術があるから優遇されるだろう。私たちは敵国語廃止で英語もやってないから、通訳もできないし、さりとて技術もないし、みじめなことになると思う」というようなことを、自分でぼそぼそと、言ったですよ。これは効きましたよね。そのときは「拘束されてたまるもんかい、どこまででも逃げたるわい」と思ったけれども、そん時に、恐怖感じたよね。こういう技師の人がね。

山口:その時にその技師の人は「毒ガス」という言葉を使ったんですかね。化学兵器という言葉を使って人道兵器だと教えられてきた一方で、こういった技師の人たちはその時毒ガスという意識をもっていたんでしょうか。

村上:こういう人たちはね、化学兵器が人道兵器だという教育を受けたわけじゃないから。私らだけだからね。

山口:そういう人にとってみれば駐留軍に調べられるっていう感覚はどういうものだったのでしょう。特別悪い兵器だっていうのは思ってなかったんでしょう。

村上:いや、毒ガスいうのはね、もう悪い兵器だって自分で意識しとるんですよ。毒ガスいう言葉は使っちゃいけんいうから、使わなかった。<あか>や<きい>でやりましたからね。だから、毒ガスが人を殺すいうことはハッキリしてるんです。だから、女子工員なんかはね、毒を使えばよかったのに、やっとやっとつくらされたのに、と言ってたんですね。それで、これからどうなるかいうことを女子工員に話す、古参兵だった老年工員がいるんですね。これが日中戦争の様子を話すんじゃね。「わしらが中国でやった。クーニャンにむごいことをやった」いうて。「だから、ロシアの兵隊がくるかアメリカの兵隊がくるかわからんが、どこが来ても無条件降伏だから、女性は一番に危ないもんだ」と、話しよるじゃけん。だから女の人たちは「私らこれをコソッと持っとる」いうて。それ何いうたら、これは青酸カリじゃいうて。自決用に持って帰るんじゃいうて。そういうことをしながらも9月11日まで島に通ったんです。

高橋:その後は、もう家にいたんですか。

村上:ええ、仕事はないしね。あとはもう同僚として会うこともない。同じ町にいてもね、そりゃあ大久野島辞めてから、いうこともなかったね。その後どこに働きに行くかは男どもの話だがね。まあドカチンやらないわね。

高橋:解用された時には、この島でのことは話さないようにとか、あったんですか。

村上:ないない、一切無い。そりゃああるどころじゃない。工員の中には、大久野島のいい物をひとつ引っ提げて行こうというね。だから、すごい泥棒がいたね。

高橋:良いものって、何があったんですか。

村上:まあ、その頃なんでも金属類はあるしね。私が一番今思うのは、こんにゃくだね。あれは風船爆弾の糊になったんだ。私はちょこっと、こんにゃく糊を貰ったことがあったんですよ。ちょっとあったらね、こんにゃくが20枚も30枚もできるんですよ。こんにゃく屋をやってたらすごい儲かったろうに。

高橋:軍事施設だから、物資は豊富にあったんですね。

村上:もう、砂糖でも食用油でもね、どーっとあったんですよ。

山口:確かにここは島と近いから。

村上:そりゃもう、たくさん行ってたんですよ。私はようやらんけどね、そういうことは。それでも9月の11日までは島のなかをグルグル廻ってね、ここに食用油がある、あそこに何があると、見てたですよ。少しくらいはね、頂いたですよ。守衛も少しくらいなら見逃したですよ。たいがい山の中に隠してありましたけどね。それを持ってきて、戦後あれで少し胸がすっとしましたよ。そんなこと思うとね、少し懐かしい気もしますよ。本当にね、敗戦になって「軍隊に行かなくてよかった」思いましたよ。私も19歳で徴兵検査うけたんよ。だけど行かせんのよ、入隊延期。島で養成工でいたから。で、入隊せんでよかったと思いましたよ。そのあと昭和26年には町役場に臨時雇いで入って、28年には本雇いになったからね。

高橋:どうも、3時間も長い時間ありがとうございました。

村上:いいや、思い出を話したからね。

コメントを投稿