第22回国際科学史会議に参加して

北京大学科学と社会研究センター山口直樹
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■第22回国際科学史会議のようす

 2005年7月23日から7月30日まで、北京で第22回国際科学史会議が開催された。東アジアで国際科学史会議が開催されるのは、1973年に東京で開催されて以来、実に32年ぶりで、二度目のことである。会場となったのはフレンドシップホテル(友谊宾馆)で、北京理工大学や中国人民大学に近いところに位置する北京でもなかなか有名なホテルである。

 7月23日は主に受付の日で特に報告などはなかった。7月24日は午前9時から10時半まで、オープニングセレモニーが大きなホールで行われた。会議の出席者は全員で900人ほどいたはずだが、その大半は、このホールに集合していたといってよいだろう。その後、プレナリーレクチャーとしてChen Ning Yang氏が“Albert Einstein: Opportunity and Perception"というタイトルで、またEberhard knobloch氏が“Mathesis Perennis-Mathematics in Ancient, Renaissance and Modern Times"というタイトルの報告を行った。特に印象深かったのは、Chen Ning Yang氏の講演だったと思う。名前からわかるようにChen Ning Yang氏は中国人である。やはり中国で開かれる国際科学史会議のプレナリーレクチャーのトップには、中国人の講演が似つかわしいと思えた。また演題のアルバート・アインシュタインに関しても、今年は特殊相対性理論が発表されて百周年ということもあり、とてもタイムリーなものだと思えた。Chen Ning Yang氏はアメリカに留学していたこともあって、英語は結構上手だったし、ホールの中には大きなスクリーンがあってパワーポイント画面を表示しており、わかりやすかった。

 教科書的にいうと、Chen Ning Yang氏はアメリカ留学中に李政道とともにノーベル物理学賞を受賞したヤンとリーのヤンにあたる人、ということになる。現代物理学を勉強した人なら必ず名前を聞いたことがあるはずだ。そのノーベル賞物理学者のYang氏が、第22回国際科学史会議の最初に講演を行ったのである。このことからも、この国際科学史会議を主催した中国科学院自然科学史研究所が、総力をあげて会議の準備にあたってきたことが読み取れるだろう。実は私はこれまでに何度か中国で国際会議に参加したことがあるが、これほど力が入った会議に出席したのは初めてである。日本の科学史界でも、Yang氏をはじめとする現代中国(あるいはアジア)の物理学者にさらに関心が向けられてもよいのではないか、などということをそこで私は考えていた。近現代中国科学史は日本では依然としてほとんど空白部分であり、われわれ日本人は、アジアの科学者をまだほとんど知らない状況にあるのである。

 2005年は特殊相対性理論百周年ということで、Yang氏の講演をはじめ今回の国際会議全体の特徴として、相対性理論に関するセッションが充実していたということがあげられるだろう。7月26日に科学技術館で行われたプレナリーレクチャーにおいて、ハーバード大学のPeter Galison氏が“The Assassin of Relativity"というタイトルで、またDanian Hu氏が“The American influence on Chinese Reception of Relativity"というタイトルで講演を行ったことは、それを象徴しているだろう。Peter Galison氏は、日本でも“Image and Logic"などの仕事で、アメリカを代表する物理学史家として知られている大物科学史家である。またDanian Hu氏はニューヨーク市立大学の教授で、やはり中国系の科学史家である。中国に相対性理論がどのように受容されたのかをずっと研究してきている人のようで、講演の内容はまさにDanian Hu氏だからこそできるものであった。また日本からは我孫子誠也氏が、“Einstein's Kyoto Address and the Reception Of Relativity in Japan"という講演を行った。中国と同じ東アジアにある日本で相対性理論がどのように受容されたのかを、石原純などの物理学者に言及しながら分析したものである。先に言及したDanian Hu氏と、我孫子氏の講演が同じ会議の中で行われていることが特に興味深い。なおDanian Hu氏は、1922年日本に滞在していたアインシュタインが、京都から北京大学のXia Yuanliという物理学者に北京大学を訪問したいという手紙を書いていた、という事実を明らかにしている。以上のようにこの国際会議の相対性理論に関する報告を見ると、相対性理論の形成過程、そしてそれが東アジアでどのように受容されるにいたったのかということが掘り下げられた。特殊相対性理論百周年にふさわしいものになったと言ってよい。

 もちろんこの国際会議では相対性理論のことだけが論じられたわけではない。なにしろ70ちかくものセッションが設けられたのであって、そのすべてについて報告することはできないので、とりわけ中国で開催されたことに関連する特色のあるものを中心に簡単に紹介し、この会議の全体像を伝えることを試みよう。

 7月25日には、「19世紀と20世紀における中国とロシアの科学技術の比較分析」や「中国とヨーロッパの比較技術史」というセッションが開かれた。後者は、ジョセフ・ニーダムのような科学史家がやってきた伝統的なテーマと言えるが、前者は、まだほとんどなされたことがないもので、ユニークなテーマと言えるだろう。とりわけ1950年代以降の中国の科学技術を考えるとき、ロシアの影響ぬきには何も議論できない。また7月28日には、「戦争と科学」「植民地科学」のセッションが行われた。「戦争と科学」においては、日本、韓国、中国の科学史家が報告し、この問題について議論した。日本からは田中浩朗氏が「戦時期の日本の科学技術動員体制」について、河村豊氏が「戦時期の日本の科学技術政策1931−1945」という報告を行った。それらの報告をうけて私、山口直樹は、「『満州国』の科学技術動員体制についての研究」を報告した(これは後で改めて触れる)。また、植民地科学のセッションでは、日本の科学史家の加藤茂生氏が上海自然科学研究所についての報告を行っている。

 7月29日には、「科学の変化2005−2050」「戦時期における中国人の人体実験、歴史、政治文化と倫理の考察」「技術と社会」のセッションが持たれた。

 「科学の変化2005−2050」ではCong Caoが「2049年の中国科学」という報告を行った。なぜ2049年の中国科学について報告したかというと、2049年は中華人民共和国建国100周年の年だからである。中国人科学史家は、この2049年という年に特別の関心を注いでいるようなのだ。「戦時期における中国人の人体実験、歴史、政治文化と倫理の考察」のセッションもまた、中国開催ならではのセッションと言える。日本からは土屋貴志氏が「日本医学の暴行1932−1945」を報告し、韓国人Kim Orun氏からは「731部隊と現代文明」という報告が、中国人研究者Nanyan Gao氏からは「医学の暴行を題材にとった戦後日本文学について」といった報告がなされ、議論が深められた。「技術と社会」のセッションでは、Hua Feng Zeng氏らによって「中国における“両弾一星”の回顧」という報告がなされた。この“両弾一星”というのは「原水爆」と「人工衛星」のことで、ここで中国の軍事史が回顧されたわけである。

 最終日の7月30日にはやや人数は少なくなっていたが、朝8時半から最初の大ホールでのプレナリーレクチャーがあった。これはこの会議の締めくくりであり、最後を締めくくったのはケンブリッジ大学ニーダム研究所所長の、クリストファー・カレン氏であった。講演タイトルは“Shifting Tectonic Plate in the History of Science :Some Reflections on the Work of Joseph Needham"。中国で行われる国際会議に参加するといつも気づくのは、必ず中国科学史研究で巨大な成果をあげたジョセフ・ニーダムのセッションが設けられているということであった。この国際科学史会議の締めくくりの講演も、「ニーダムの仕事の影響」についてだったのである。1995年に95歳で亡くなったニーダムという科学史家の偉大さと影響力の強さを、改めて知らされたような気がした。

 さて今回の国際科学史会議に参加して前回のときと違ったことを最後に述べておきたい。それは、前回のメキシコのときとくらべ、アメリカの科学史家の参加が非常に多かったということである。しかも非常に名前をよく知られた有名な科学史家がやってきていたということ。これはやはり、彼らの中国に対する関心の高さを示すものであると考えていいように思う。2008年の北京オリンピックをひかえ急速な経済成長を遂げつつある中国だが、学術の面においても活況を呈しつつある。それは、中国系のアメリカ科学史家や中堅クラスの中国の科学史家の活躍をみていて、非常に感じさせられたことである。彼らはいま上昇ムードのなかにあり、とてものっている。中国をはじめとした東アジアの科学史が世界の学問の最前線に躍り出る日も近いのではないか̶̶そんなことを考えた国際会議だった。四年後の2009年には、ハンガリーのブタペストで第23回の会議が行われることが決まった。はたしてどのような会議になるだろうか。


■私にとっての国際科学史会議とは

 私にとって国際科学史会議への参加は二度目である。第21回のメキシコシティでの国際科学史会議に参加したときと大きく違うのは、滞在先がホテルではなかったということだ。普通、国際会議の参加といえばホテルに滞在となるものだが、実は留学先がちょうど国際科学史会議の場所になるという幸運に恵まれたのである。すなわち2003年の9月から私は、中国の北京大学に中国政府国費留学生として留学しているので、北京にはすでにほぼ2年滞在していることになる。そのため大学とホテルの間の交通費や参加費を除けば、お金もほとんどかかることがなく助かった。

 私は北京大学の校内にある留学生寮(勺園というところである。)からフレンドシップホテルに通うことになった。タクシーを使って時間は15分ぐらいであった。そもそもこのフレンドシップホテルというのは、1955年にソビエトの技術者や研究者が滞在することを目的に建設されたホテルで、北京では最大の敷地を誇っているらしい。現在では、ロシアに限らずたくさんの外国からの学者や研究者が滞在している。ちなみに、北京のタクシーの運転手は英語はまず通じないが、中国語ができなくても漢字を書けば運転手には通じるので、日本人にとってタクシーに乗ることはそれほど難しくはいだろう。

 さて、私にとっての今回の国際科学史会議は、7月23日より少し前に始まっていた。というのは、せっかく日本からたくさんの科学史家が北京にやってくるのに、中国の大学生との交流の機会を設けないのはもったいないのではないかというわけで、7月21日、22日と、東大教育学部の金森修さんや“サービス科学”の提唱者としても知られる中山茂さんに北京大学での集中講義をお願いしていたからである。

 金森さんには「サイエンスウォーズの総括」と「橋田邦彦の科学論」について、中山茂さんには「戦後日本の科学技術と戦後アメリカの科学技術の比較研究」といったテーマで講義をしていただいた。大学が夏休み中だったのでそれほど多くの聴衆をあつめられなかったのだが、それでもなかなか刺激的な交流ができたのではないかと思っている。金森さんはたとえば「橋田邦彦の科学論」のところでは「橋田邦彦をファシストと決め付けるのは、やはりいささか問題がある。」といったように、中国人からみるとかなり微妙な評価も思い切ってやっていた。私はやはり金森さんには意識して綱渡りを引き受けるようなところがあるな、と思ったりしたものだ。

 7月20日に北京空港に金森さんを迎えに行ったところあたりから、私にとってはすでに国際科学史会議のプレ企画という雰囲気であった。こういうことができるのも留学先と国際科学史会議の場所がたまたま一致したという幸運によるものだが、そんなわけで金森さんと2、3日行動を共にすることになった。日本にいてもなかなか話す機会はないのだが、意外に海外だと話がしやすい。「市民科学研究室の上田さんは、第二の高木仁三郎になるかもしれないね。」などという話をしたあと、私は金森さんに北京大学や北京清華大学のキャンパスを案内した。日本からの来客を北京大学に案内するのは、市民科学研究室の藪玲子さんらがやってきた昨年の10月以来、久しぶりのことだ。7月23日の午前中は、北京大学からタクシーで近くの五道口という地下鉄の駅に行き、そこから地下鉄で天安門に向かった。北京がはじめての金森さんを故宮に案内するためである。しかし、あいにくその日は土砂降りの雨で、二人ともびしょぬれになってしまった。そしてぬれたままフレンドシップホテルと国際会議の受付を済ませ、プレ企画は終了という感じになった。

 なお北京大学での集中講義のうわさを聞きつけてか、このあと金森さんは北京清華大学の人からインタビューを受けたり、北京清華大学での集中講義の依頼を受けたりしたようだ。北京清華大学の人たちもなかなかよくアンテナを張っているものだと感心した。


 さて、国際科学史会議での私自身の報告について紹介したい。日本の「内地」の科学技術動員体制や科学技術政策について報告した田中浩朗さんや河村豊さんの報告を受けて、私は「満州国」の科学技術動員体制の特徴を報告した。また、私の前にすでに矢島道子さんが「満州における地質学者の活動」について、里深文彦さんが「満州における日本の農業政策」についての報告を行っていたので、さまざまな報告を受ける形で報告することになった。

 何度か国際会議で報告したことはあるが、やはり何度やっても英語の報告のときは緊張する。しかし、パワーポイントなどが普及してかなり英語での報告がやりやすくなったと感じた。報告自体は、ほとんどパワーポイントに示した内容を読むようにした。「満州国」の科学技術動員体制に関して、具体的にどのような項目が動員の対象になっていたのかを報告しつつ、それが「内地」の科学技術動員体制とくらべてどのような違った特徴をもっていたのかということを報告した。

 もし英語のネイティブの人が私の報告を聞いたら、きっとあまり深みのない報告だと感じただろうが、アメリカやイギリスの科学史学会ではなく、英語がネイティブの人が多いとは言えない国際科学史会議の場合は、これぐらいの方がよいだろうと判断したわけである。とにかくわかりやすい英語で報告することを心がけた。7つほどの質問が来て活発な議論が起こったので、結果はそれほど悪くなかっただろうと思う。心配していた英語での受け答えの方も、それほど的外れな答えをすることもなかったので正直ほっとした。日本の若手科学史家はプレゼンテーションは悪くないが、最後の質疑応答がだめだ、という評判があると聞いていたので、そうなることだけは避けたかったのだ。

 質問では、動員される科学者の抵抗の可能性などについて聞いている人がおり、その質問が印象に残った。日本国内だけでシンポジウムをやっているときとはやはり違うなと感じるのは、こうした質問が出たときであった。

 植民地教育の分野では10年ほど前から、「戦争と教育」といったテーマで日本、韓国、中国の学者がこれまでに何度もシンポジウムを重ねてきている。私も何度か参加したことがある。それと比較するならば、科学史の分野ではまだそうした試みはほとんどなされておらず、日本、韓国、中国の科学史家が集まって「戦争と科学」というタイトルでシンポジウムを行うこと自体、ほとんど初めてのことといってよい。韓国の科学史家とはまたちがった位置にある、在日朝鮮人科学史家の参加がなかったというような課題は残したものの、まずはそのことを私の第二のホームグランドといってよい北京でやれたことを率直に喜びたい。なおこのセッションで、医学史を研究している土屋貴志氏や中国側から「満州国」の大陸科学院を研究している田君という中国人と出会えたのも、私にとって収穫であった。

 7月29日は、国際会議の合間をぬって日本の知りあいが、北京大学を訪問してくださった。その知りあいとは、市民科学研究室の古くからの常連である猪野修治さんや、そのほか矢島道子さん、古川安さん、里深文彦さんといった人たちである。この四人のうち矢島さんと里深さんは、中国経験者である。矢島さんとは2001年の東京工業大学が主催した火曜ゼミを北京清華大学でやったとき、一緒だったことがある。猪野さんと古川さんは中国にはじめて来たのだという。古川さんが中国に来たことがなかったのはちょっと意外だったのだが、よく考えてみれば、日本でも科学史は欧米志向なのであって、中国の科学史を研究するのでもない限り、中国に来る必要を感じなかったということなのだろう。

 東大の赤門に似た北京大学の西門で四人をタクシーから降ろし、まずは、私の住んでいる勺園を案内し、それから北京大学のキャンパスをまわることにした。日本から来た人を私が案内するのは、昨年10月に市民科学研究室の藪玲子さんたちがやってきて以来のことだ。キャンパスのなかにある百年記念堂や図書館などの建物には、みんな興味をひかれたようだった。百年記念堂というのは、1998年に北京大学創設百周年を記念して建設された建物で、なかでは映画上映や音楽会などがよく行われている。北京大学の図書館は、約560万冊の蔵書が所蔵されており、中国の大学では最大の蔵書数である。なによりその中国風の建築には、アメリカ風の清華大学の建物とくらべて特徴がある。

 さて北京大学の最終コースは、私が所属する科学与社会研究中心(科学と社会研究センター)である。そこで四人を私の指導教官である任定成先生に引きあわせることができたのは嬉しかった。特に古川さんは化学史が専門で、任先生と専門が同じであるし、日本科学史学会の欧文誌HISTRIA SCIENTIARUMの編集長でもある。任先生は実は、その欧文誌における中国側唯一の編集委員なのである。少なからぬ縁があるというわけで四人を任先生に紹介し、記念写真を撮った。

 このように、今回の国際科学史会議のもうひとつの意義とは、普段はほとんど交流のない日本の科学史家と中国の科学史家との交流をはかれたこと̶̶おそらくはこのことにほかならなかっただろう。

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