市民科学・リビングサイエンス|市民科学研究室
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月刊「市民科学」
それぞれの号に掲載されている記事・論文の全文は、 【巻頭言】 2008年はどんな1年になるのだろうか。年頭にあたって、多くの人が感じていることではあるが、環境、安全保障、危機管理という面で日本がきわどい状況にあることにふれてみる。
●日本に環境政策はあるのか
●日本にはまともな安全保障策はあるのか
●日本に危機管理はできるのか 環境、安全保障、危機管理の面で、先を見据えた、国民を深く頷かせる、転換ための政策ビジョンを示せるかどうかで、日本の将来が決まるだろう。科学技術の発展はそうした転換に奉仕するものでなくてはならないと思う。■
http://www.maff.go.jp/soshiki/kambou/kouhou/guidebook/guidsepa-10.htm より
http://research.goo.ne.jp/database/data/000628/ より 2007年12月発行の「市民科学」の第11号 【巻頭言】 ここ10年ほどで急速に普及した携帯電話には、電磁波の人体への影響や、犯罪、コミュニケーションの変容など、検討すべき様々な論点がある。ここではその販売モデルの問題点を指摘したい。 日本は世界有数の携帯先進国である。今年になって日本における携帯電話契約数(PHS含む)はとうとう1億台を突破した。単純に計算しても8割の人が携帯電話を持っていることになる。持ちたい人にはすべていきわたってしまい、市場は成熟期に入りつつあると言える。 一方、2006年度の携帯電話出荷台数(PHS含む)は4876万台である。この台数は2001年からほとんど変わっておらず、この間おおよそ4500万台〜5000万台で推移している。契約数の増加などを考慮しても、ユーザは、ほぼ2年に1度は買い換えていることになる。ちょっとこれは買い替え頻度が高すぎるのではないだろうか? おサイフケータイや、ワンセグなど、様々な新規機能が追加されていったことが、消費者の購買意欲をそそったということはあるだろう。しかし、なんといっても端末の価格が異常に低いことが第一の誘引であったことは間違いない。日本で販売されている端末は海外と比較して高機能タイプが多く、正規に値段をつければ5万〜10万円程度といわれている。それが、せいぜい数万円、極端な場合は無料で手に入るのである。これでは使い捨てが進むのはあたりまえである。なぜ、販売店はこれほど安価に端末を供給できるのか? このようなことが可能な背景には、販売奨励金という仕組みが存在する。 販売奨励金とは、NTTドコモなどの通信事業者が販売店に出すものだ。販売店は、これを原資として端末の価格をかなり下げて売っているのである。その金額は、平均すると端末1台あたり4万円にもなるという。当然のことながら、通信事業者はユーザから入ってくる毎月の通信料金でその穴埋めをする。要するに、端末を安く手に入れた分、通信料金が高くなっているということだ。 さらに言えば、単に後払いになっているだけではない。ユーザの通信料金が同じならば、端末の買い替えを頻繁にするユーザの方が販売奨励金を多く受け取ることになるので、結果的に「得」をするようになっているのである。逆に、同じ端末を長く使うユーザは、他人の端末代を負担していることになる。非常に不公平な制度であるが、通信事業者から見て、販売奨励金の目的は2つある。一つは新規顧客の獲得。もう一つは、より高機能な端末に乗り換えてもらうことにより、通信料金、コンテンツ利用料金の収入を増やすことである。 しかし、ユーザが端末だけ安く買って、さっさと他の通信事業者に乗り換えられたのでは、販売奨励金でのディスカウント分を回収できず、通信事業者はトータルで損をしてしまう。そこで、端末にはその通信事業者のサービスしか使えないようソフトウェア的なロックがかけられている。これをSIMロックと呼ぶ。このため、ユーザが他の通信事業者に乗り換えるためには、端末を買い直す必要がある。通信事業者を変更できるSIMロックフリーの端末もごく一部存在するがほとんど知られていない。また、この場合、NTTドコモのiモードなど、その通信事業者独自のサービスは使用できない。 今年に入って総務省が立ち上げた「モバイルビジネス研究会」は、これらの不公平、不透明な販売モデルからの脱却をまとめた提言を出した。現状のような、通信事業者が端末もコンテンツも抱える形ではなく、もっとオープンで競争的な市場への移行を求めている。一方、市場が成熟期に入り始めたこともあり、通信事業者には携帯電話の料金体系や契約方法を見直そうとする動きも出てきつつある。 確かに高機能端末の恩恵を受けている人はいるだろう。また、高機能端末が市場を拡大し、様々な可能性を広げてきたともいえるだろう。しかし、多くの人にとって過剰な機能は不要である。ユーザに十分な説明もせず、通信費による後払い(=借金)で、それら不必要に高機能な端末を買わせるのは一種の詐欺である。端末と通信サービスの価格を分離して、それぞれ別に明示するべきであろう。また将来的には、端末販売と通信事業者のサービスを分し、同じ端末で通信事業者の移動を可能にすることが望まれる。パソ コンと同じように、必要な機能・サービスも自分で選択できるべきだ。携帯電話は無線である点を除けば、ネットワークにつながった小さなパソコンなのである。■ 2007年10月発行の「市民科学」の第10号【巻頭言】 食の「安全」と農業の未来 山寺久美子(市民科学研究室理事) 解凍するだけで食べられる弁当向けの冷凍食品がよく売れているそうだ。レンジで温める手間もいらず、弁当箱にただ詰めるだけで昼には丁度食べ頃になるらしい。家庭内での料理もずいぶん簡略化されるようになった。90年代後半に頭打ちになった外食に変わって、最近は中食(コンビニ弁当やデパ地下の総菜など)の割合が急増している。外食に比べ低価格であることや、孤食が増えたことが主な理由だという。外食や中食など出来合いのものに頼った食生活は、内容の分からない添加物・ポストハーベストにより汚染された安価な輸入食材・遺伝子組み換え食材などのリスクの高い実体の見えない食を氾濫させている。表示偽装や残留農薬などの不安なニュースは、このような食生活の延長線上にあるようにも見え、私達消費者が変わっていく必要性も強く感じる。「食の安心・安全」を得るには、食に関する幅広い知識を得ることや、料理の手間を惜しまない努力が必要であると思うが、それらと共に、普段あまり注目されることのない日本の農業について真剣に考えることが大切なのではないか。 スーパーで買い物を済ませるごく一般の消費者にとって、農業は遠い存在かもしれない。しかし、何気ない日々の消費は、日本の農業のあり方について強力なメッセージを発している。最近スーパーでよく目にする「有機JAS」マークと「トレーサビリティ」表示のついた食品は、安全を求める消費者に人気があるが、それらに派生する農業の問題について少し考えてみたい。 最近、お手軽価格の「有機JAS」が増えている。これは安価な輸入有機JASが増えていることによる。もともと有機JASは、有機農産物の国際商品化に向けてつくられた基準であるため、国産品と輸入品の扱いは区別されていない。そして実は、有機JASのかなりの割合が輸入品である。(平成16年・農林水産省の調査によると、輸入有機JASは国産有機JASの約10倍)中国産野菜の残留農薬問題の影響もあり、国産野菜に安全なイメージを抱いている消費者は多い。しかし今後この有機JASの存在が、国産有機だけでなく国産農産物自体の脅威となることが予想される。安全を求める消費が、逆に輸入を促進することになるのである。その先の日本の農業のことをどれだけ意識して、消費者は有機JASを選んでいるだろう。 「トレーサビリティ」は生産・流通の履歴であり、直接商品の安全性を保証するものではない。しかし、そこに記された生産者の名前や顔は消費者に信頼感を与えており、スーパーでは人気商品となっている。さて、そのトレーサビリティ制度は、多額のコストと労力負担が必要であるため大量生産・大量消費がひとつの原則となっているが、そのことで地場の良心的な農家を地元のスーパーから追い出してしまうことがあるという。地産地消を守れないこの制度は、本当に有益なものといえるのだろうか。農家と直接コミュニケーションをとれる地場野菜の直売所では、そもそもこの制度が不要である。長距離輸送とは縁がない新鮮な野菜を手に入れることや、身の回りの自然環境を守ることなど、地域の農業の果たす役割は大きい。今後このような農業のあり方こそ大切にするべきではないか。 有機JASマークやトレーサビリティ表示のついた商品が、実際に「安全」であるとは言い切れない。有機JASには、実は約30種の農薬の使用が認められており、その中には毒性を疑われているものもある。トレーサビリティは、先にも述べた通り、安全性を目指した生産がなければ、ただの生産履歴でしかない。しかしこれらの制度は、消費者に対して“「安全」であれば、それで良いのか。”という問題提起をしている。輸入への依存度が高い日本の食生活が生み出す環境負荷や、いずれ来るであろう地球規模の食糧難からも、日本の農業を早急に再生させることは必須である。私達消費者が安全に対する認識をさらに深めることは大変重要だが、それと同時に将来を見据えた消費を考え、身近な農業と繋がっていく必要があるのではないだろうか。■ 2007年9月発行の「市民科学」の第8・9合併号 【巻頭言】 リスクコミュニケーションというリスク 吉澤 剛(市民科学研究室理事) 今年の5月、厚生労働省は月齢20ヶ月以下の牛の牛海綿状脳症(BSE)検査に対する全額補助を来年7月末に打ち切ることを決定した。それに対して一部の自治体が独自に検査を継続する方針を示しているが、同省が都道府県などに通知を出し、全国一斉に検査を終了するよう求めていることが先日明らかになった。厚生労働省はその理由として検査をしていない産地の安全性が劣るイメージを与えると説明し、継続や検査結果の表示について「望ましくない」と牽制している。朝日新聞の7月の調査によると、神奈川、兵庫、和歌山、徳島、佐賀、長崎、宮崎、鹿児島、沖縄の9県が補助打ち切り後も「検査を続ける方針」と答えている。 上のニュースは、厚生労働省と自治体がリスクコミュニケーションに失敗した一例として挙げたものである。リスクコミュニケーションという単語を今まで一度は耳にしたことがあると思う。「リスクコミュニケーションとはどんな食品にも食べ方や量によっては多少のリスクのあることを前提に、科学に基づいて費用や効果も考え、科学的な対処法等について広報し、意見を交換し、協力することをいいます」(内閣府食品安全委員会『食の安全に関するリスクコミュニケーションの現状と課題』、2004年、5頁)。このような政府の説明を読むと、リスクコミュニケーションは省庁など政府機関が主体となっておこない、リスクについてのメッセージを出すことを狙いとしている。また、健康や環境についてのリスクを想定し、主に一般市民を対象にしたコミュニケーションである。つまり、政府機関の設置した組織などを通じて、専門家の科学的知見に基づいた健康や環境についてのリスクを非専門家である一般市民に伝える、というのがリスクコミュニケーションの主旨であり、実態となっている。双方向のコミュニケーションを実現するため一般市民の意見が専門家や政府に伝えられることもあるが、それはリスクについての考えを反映させるというよりは、意見を聞いた上で市民の「間違った」リスク認識を正すという意味合いが強い。こうした活動は下の表にあるように、リスクコミュニケーションの狭い定義に基づいている。 リスクコミュニケーションの定義
Plough and Krimsky(1987)を基に作成 最初のニュースに戻ろう。厚生労働省と自治体とのリスクに対する認識の違いはどこから来るのだろうか。厚生労働省はリスクコミュニケーションは正しくおこなわれ、月齢20ヶ月以下の牛の感染リスクは人々が許容できるほど十分低いと考えている。しかし、リスクというものは個人によってその認識も受容度も異なる。検査を継続しようとしている自治体はそれを意識し、感染リスクを高く見積もったりリスクをおそれる消費者に対して「BSE検査済みの月齢20ヶ月以下の牛」という新たな選択肢を与えようとしているのである。また、自治体は個人の健康についてのリスクだけを見ているわけではない。検査を終了することで社会が安心感を失うことのリスクも含めているのである。厚生労働省は「検査をしていない産地の安全性が劣るイメージを与える」と言うのであれば、そもそも検査を一斉に終了することによる人々の不安の増大や風評被害といった社会的リスクをどの程度考慮していたのか聞いてみたい。いったいどちらの方が社会に安心を与えると考えていたのだろうか。安全や安心というものは実験室や会議室の中で測れるものではなく、社会に出て、人々に触れて知るものであろう。 自治体は政府の委員会で専門家が決めたことだけを鵜呑みにするのではなく、消費者や産業界からの声に耳を傾け、彼らの認識しているリスクもコミュニケーションの情報源としている。検査を継続する自治体は検査によって科学的リスクが低いということを示すばかりでなく、検査を続けることで社会的リスクをできる限り抑えようとしているのである。政府は「専門家が科学的リスクを算定し、一般市民にその情報をきちんと与えればリスク認識も改められるだろう」と考えてきたのではないか。政府がリスクコミュニケーションの狭い定義に甘んじ、消費者や市民と真摯に向き合ってこなかったツケは小さくない。リスクコミュニケーションが人々のコミュニケーションにリスクを与える、という笑えない皮肉になりかねない。 コミュニケーションという言葉は「共有」を意味するラテン語に由来する。リスクに対するただ一つの考え方を全員で「共有」するのではなく、相手のリスクに対する考え方を自分が理解し、自分のリスクに対する考え方も相手に理解してもらう。それが本当の意味での「共有」であり、本当の意味でのリスクコミュニケーションである。■
2007年7月発行の「市民科学」の第7号 現代社会に生きるわれわれにとっての市民科学の意義を考えてみたい。「市民科学研究室」という名前を見て、「科学」と言われても素人にはわからない、専門家から見ると間違ったことを言ってしまうかもしれないから近寄り難い、と敬遠してしまう向きもあるのではないだろうか。しかし、現代社会において、科学技術にまつわる諸問題を考えるとき、科学技術の専門家にしかわからないのだから、判断はお任せするしかない、としてしまってよいのだろうか。この点を「トランス・サイエンス」という言葉を手がかりにして考えてみよう。 「トランス・サイエンス」(trans-science)という言葉は、「科学に問うことはできるが、科学(だけ)では答えることのできない」領域を指す造語である。例えば、原子力発電所は安全かどうか、という問いに対して、科学的に事故の起こる確率を算出することができたとして(それ自体実際は問題孕みだが)、それはきわめて低く無視できる程度で安全だと専門家は言う。ところが、たとえ小さい確率でも事故が起きてしまったときの被害の大きさを考えると無視できないと考えることもできる。結局、この問いに答えようとすると、科学的研究によってある程度までは追究できても、科学だけでは決められない、つまり「科学を超えている」問題だ、というわけだ。すぐれて社会的価値判断がかかわる問題だからである。社会的に注目を浴びる問題は、しばしば専門家の間でも見解が分かれているものだし、対象の性質上、科学的に追究しようと試みても、実験できない類のものや必要な実験が莫大な規模となるため、実際上、不可能なものもある。こうしたものもトランス・サイエンスに括られる。 「トランス・サイエンス」とはもともとアメリカのオークリッジ研究所のワインバーグが1972年に提唱したもので、日本でもその直後、柴谷篤弘の『反科学論』(みすず書房、1973年、ちくま学芸文庫、1998年)で「超科学」と訳されてすでに紹介されている。近年、科学論の文献で再び取り上げられることが増えてきて、先月(6月)出版された、小林傳司『トランス・サイエンスの時代――科学技術と社会をつなぐ』(NTT出版、2007年)では書名にも現れるようになっている。 市民科学研究室が現在取り組んでいるプロジェクトや勉強会には、電磁波、低線量放射線被曝、ナノテクノロジーなどの問題があるが、これらは、まさにトランス・サイエンスの領域の問題群である。この他にも、BSEや遺伝子組み換えなどの食品リスクの問題などもそうである。これらの問題に取り組もうとすると、個々の科学技術の専門的知識をフォローすることも必要だが、それらが社会のなか でどのように問題なのかが扱うべき争点となる。つまり、トランス・サイエンスの領域の問題を考えるということは、「科学」だけでは解けない問題であるがゆえに、そして社会的な問題となっているがゆえに、「科学と社会」を考えることなのである。 翻って、市民科学とは、専門家の行なっている「科学」を「市民」も勉強するといった、従来の科学観で考えてしまうのではなく、そこで扱う「科学」とは「トランス・サイエンスの時代」の科学、つまり「科学と社会」を考えることこそが目的だと言えよう。実際、市民科学研究室の前身の名称は「科学と社会を考える土曜講座」であったことを思い出していただきたい。 ちょうどこの原稿を書いている時に中越沖地震が起こり、柏崎・刈羽原発のトラブルが多数あったことが明らかにされつつある。例えば、こうした「地震と原発」という問題の場合、最新の地震学の知見をふまえ、耐震基準を見直し、発電所の設計を改善していく、という科学技術の側面からの対応、そして、さまざまな天災・人災に備えた社会システムの構築が必要、というのが常識的だろう。しかし、もっと根源的なところから考えてみれば、こうした問題を抱える科学技術(この場合、原子力発電)を利用することを選択している社会のあり方を問い直す、という方向もあるだろう(それを利用しない社会だってありうるのだから)。「科学」を問うことが同時に「社会」を問うことにもなる、「トランス・サイエンス」の時代に、市民科学を模索していくことの意義はますます増していると言えるのではないだろうか。
2007年6月発行の「市民科学」の第6号 市民科学研究室ではきたる7月21日に市民科学講座「科学映像メディアと市民?TV、インターネット、映画の生かし方・作り方」を開くが(今号4ページ参照)、私がこの東京でのセミナーと夏の富山での合宿セミナーで探ってみたいことの一つは、インターネットを活用して一般市民が、たとえば環境や健康のリスクにかかわるような問題の理解と解決に必要な科学知識を上手に取り込んでいくために、ほんとに役に立つサイトというのはどんなものであり、そこに画像や映像をどのように活用していくことができるのか、という点だ。 日々、科学の専門知識に関連する様々な情報を収集しているが、そんな中で出会った多くのサイトのうちとりわけ優れていると思えるものには、各々のサイト独自の特長や工夫があると同時に、どれにも共通する“見る者を引きつけ探ってみようとさせる”ことへの一歩踏み込んだ仕掛けがあるという気がしてならない。情報の量的蓄積を高めることがその利用度を高めることにきちんとつなげられていること、情報の信頼度と偏りのなさを担保するための一定の手続きをふんでいること、インターネットならではの動画や図解を効果的に用いていること、そして膨大な情報に適切な階層的構造化と相互の関連づけがなされていて非常に探しやすく(ページを読み込む者が今自分がどこにいるかがはっきり分かるように)なっていること、などがその共通点と言えるだろうか。 たとえばごく最近の「家電の電磁波法整備を WHO初の国際指針で勧告」というニュースを取り上げてみよう(『東京新聞』2007年6月18日朝刊一面)。紙面では《WHOは、具体的な規制値は示さなかったものの、日本や米国などでの疫学調査から「常時平均0.3?0.4マイクロテスラ(テスラは磁界や磁石の強さを表す単位)以上の電磁波にさらされていると小児白血病の発症率が二倍になる」との研究結果を支持。「電磁波と健康被害の直接の因果関係は認められないが、関連は否定できず、予防的な対策が必要だ」と結論づけた。》となっているが、ではこの疫学調査の意味合いや各国の対策の現状を知ろうとすると、どこのウェブサイトを参考にすればよいか?
そのためには、電磁界の物理、健康リスクにかかわる医学生物学、規制政策のしくみなどをわかりやすくかつ手際よく、そして偏りなく正確に示されねばならないが、残念ながら日本ではこの要請に応えようとしていると言えるのは、手前味噌になるが「babycom」のecologyのサイト(筆者が監修を務める)と、「電磁波なび」くらいだろう。英語の情報に目を向けると、たとえば、
2007年5月発行の「市民科学」の第4・5合併号 最近、「遊びの意義を科学的にとらえることはできるだろうか」という問いを考える機会があった。子供の成長にとって遊びは欠かせないだろうことに異を唱える人はいない。しかしそれが子どもの精神と身体の形成に(あるいは脳の発達や言語の習得に)どうかかわっているのか、必須の遊びとそうでないものとの区別はつけられるのか、大人と遊ぶことと子どもどうしで遊ぶことの根本的な違いは何か、遊びをとおしてでないと社会性が十分に身につけられないように思えるがそれはなぜか、テレビゲームに人がこれほど熱中するのはなぜなのか……といったことに、科学の目があまり向けられてこなかったのではないか、という気がした(私が無知なだけで、すでにそうしたことを扱った研究があるのなら、ぜひ教えてください)。これは脳科学や言語学がまだこうした問題に正面からアプローチできるだけ成熟していないからだろうか。それとも、“遊び”を研究対象とすることが何か見劣りのすることと思われてきたためだろうか。もちろんピアジェをはじめとする児童心理学の著名な研究者たちの蓄積はある。しかし、それらの研究から、たとえば「なぜ子どもには遊び場(遊ぶための自由空間)が必要なのか」は十分には見えてこないように思う。 私がなぜこのことを問題にするかというと、生活の中でそれと気づかないままに失われていくものを、科学的にとらえ返してその意義を評価することが、生活者のための科学(=リビングサイエンス)の重要な仕事だと思い至ったからだ。高度経済成長期にクルマが大いに普及して道路の至る所に進入してくるようになり、また宅地の開発が進み、子どもが自由に遊べる道路、原っぱ、空き地は姿を消した。子どもは家の中で遊ぶか、大人に郊外に連れ出してもらって遊園地などで遊ぶしかなくなった(幼稚園や学校の“遊び場”としての位置づけはここでは措いておく)。子どもだけが自由に集い自由に遊ぶ空間がなくなり、いわば大人の管理のもとでしか遊べないという制約は、子どもの成長に大きく影響しているのではないかと思われる。遊びを「失敗をとおして自己を認識する」「創意工夫を自由にこらす」「人間関係の複雑な調整の能力を養う」といったことの実験場とみなせるとするなら、「大人が介入しない」ということの大切さが見えてくる。今の50代以上の日本人は、たとえ都会育ちであっても、おそらくこの自由空間を享受した経験を持っていると思われる。しかしその経験を、郷愁感を持って思い返しはしても、子どもの成長のために社会が守るべき条件としてとらえた人は少ないのではないか。今の子どもたちの姿と自分の経験を重ねてみて「自由空間は大切だ」と直観しても、その直観を社会的な合意を前提とする地域コミュニティや国の施策にまでつなげるには、何らかの科学的な裏付けが求められるだろう。 先日参加した「スローフードフェア2007」(4月28日・29日、パシフィコ横浜にて)で日本茶の世界の奥深さの一端を伝えてくれる講座に参加したが、その中で、ペットボトルの緑茶の普及で、日本茶全体の消費量は下降線をたどらずにすんでいるものの、一般家庭における日本茶の茶葉消費量は、年々減少傾向にあり、消費者への受けと大量生産に適した品種だけが栄えるという、日本茶のモノカルチャー化が進んでいるとの指摘があった。日本茶は、それこそ何百年もかけて、地域の特性や栽培家の嗜好などを生かして多種多様な品種が育成され、それに応じた微細なお茶の入れ方や味わい分けの世界が築かれてきた。それは何も貴族や特権階級の独占物ではなく、庶民の間にも「お茶を知り、お茶を入れ、お茶を味わう」という習慣が根付いてきた長い歴史がある。この“お茶を飲みながらゆるやかな時間を過ごす”という習慣は、たとえば健康を維持する上で思いのほか大きな役割を担ってきたのかもしれない。利便性と引き換えに失われつつある「お茶の時間」の意義をとらえ返す必要がありはしまいか――そう、工業的加工と大量生産のために投入される科学知とはまた別の次元の「生活の中に埋め込まれてきた知」を可視化しなければならないのだろう。その方法論を私たちはまだ持っていないが、失われつつあるものを危機感をもって見据えることで、その探索に着手することはできるだろう。■ 2007年5月発行の「市民科学」第4・5合併号
2007年3月発行の「市民科学」第3号 抗インフルエンザウイルス剤タミフルをめぐって事態が紛糾している。3月20日に新たに報告された10歳代の2事例(表の17、21)を受けて厚生労働省は、タミフルとそれの服用後に生じた異常行動との因果関係については認められないとしつつも、従来「安全性に問題はない」とする姿勢から一転して、10歳代への使用を原則禁止することを打ち出した。それ以前に同省が公表していたのは、表の4、13、14、16の4つの死亡事例のみだった。さらに同省はその翌日、死亡には至らなかった10代の9件、そして死亡3件を含む成人での7事例の報告があったことを明らかにした。 NPO法人医薬ビジランスセンター(浜六郎理事長)がすでに2年も前から、タミフル服用後に異常行動を起こす恐れがあると警告を発していたこと、また昨年7月に結成された「薬害タミフル脳症被害者の会」が11月に厚生労働省に安全対策の強化を求める要望書を出していたことを思うと、同省の対応はあまりにも遅いと言わざるを得ない。さらに、因果関係の究明を託された研究班の主任研究者を含む3人が、タミフルの輸入販売元の中外製薬から寄付金(総額7600万円)を受けていたこと(しかも同省の担当者はこの寄付金から研究費への流用を容認していたという)が発覚して、同研究班が導いた「因果関係なし」の主張にも大きな疑いの目が向けられることになった。 同省は、01年2月の発売以降に報告があった約1800件の副作用を再調査すると約束し、さらに研究班からは上記3名の研究者をはずすことを決めたが、信頼性の回復は容易ではないだろう。一方、この問題で批判の急先鋒に立つ浜六郎氏は研究班の報告書のデータを再解析して「因果関係は十分に説明できる。初回服用後数時間の時間帯をみると、飲まない場合よりも4−5倍から12倍、異常行動を有意に起しやすく、事故死7人も統計的に有意」と断定し、「タミフルの承認取り消し・回収」を訴えている。 異常行動との因果関係の究明はむろん重要だし、副作用については発症事例をすばやく調査して予防的な警告を発していくことは当然なのだが――しかしたとえば子どもがインフルエンザ感染でタミフル非服用の場合に、意識障害・行動障害などが出ていても、それを親がなんとか取り押さえて、大事に至らず報告されないケースも少なくないだろうから、精密な疫学調査はなかなか難しいだろう――タミフルの薬剤としての性質に目を向けるなら、普通の体力を持つ10代や大人に使用することがそもそも適当だったのかという疑問が浮上する。 インフルエンザウイルスの感染に有効なのは、今のところ自身で作られる抗体だけであり、感染後に病院へ行っても本来は意味がない。ワクチン(予防接種)が重視されるのはそれ故だ。タミフルはインフルエンザを予防できないし、ウイルスを撃退することもない。ウイルスの増殖を妨げ、高熱をやわらげ、発熱期間を1日程度縮めるだけだ。ただ、ウイルスの増殖が抑制される間に、人の免疫はウイルスという異物を認識し応戦する作業を進める。その余裕を与えてくれるのがタミフルだ。発熱もウイルス撃退の一つの応戦プロセスとみなせるので、タミフルを解熱剤的に使うことには問題がある。 タミフルは、鳥インフルエンザの流行からもその発生が懸念されている、致死率の高い新型インフルエンザに備えて備蓄がはかられてきた(ただし、新型が流行する事態を迎えた時にタミフルがどの程度有効かどうかはわからない)。この懸念は世界共通のはずだが、日本の処方数は突出していて(2006年の年間販売量は1080万人分)、なんと世界の全体の4分の3を占める。2005年のFDA(米国食品医薬局)の調査で、タミフルによる異常行動の報告例がほとんど日本に集中している(米国5人、ドイツ2人などに対し、日本は95人)のも、この適用対象を限定しない“濫用”からくるとみて間違いない。 タミフルの副作用事例を精査して公開し、その適用を限定し、服用が望ましい場合にもリスクを最小限にする方策を明確に打ち出すべきだろう。■
※表はhttp://www.mainichi-msn.co.jp/science/medical/news/20070322ddm041040133000c.html
2007年2月発行の「市民科学」の第2号 「宇宙基本法」(仮称)をご存知だろうか? 自由民主党が中心となってこの2月にも国会に提出しようとしている法案だ。その骨子で、「わが国の総合的な安全保障に寄与する」宇宙開発を是とし「非軍事」から「非侵略」への転換を謳っている。これをあと押ししているのが経済界で、国際競争力を失っている日本の宇宙関連産業に活を入れるべく「毎年一定の公的需要による受注確保」を要請し、「2006年度予算では約2,500億円となっている。これは、米国(NASA)の6分の1程度にすぎず、欧州(ESA:欧州宇宙機関)よりも低い水準である」という“比較”まで持ち出している(経団連の「わが国の宇宙開発利用推進に向けた提言」2006年6月20日)。 この動きと密接にからんでいると思われるのが、米国のミサイル防衛(MD)への日本の加担だ。ブッシュ政権は国家宇宙政策を10年ぶりに改定した。その中で目立つのは、「宇宙を制するものはそうでない国に対して実質的優位をもつ」「宇宙での行動の自由は制海権や制空権と同様、米国の国益にとって必須のものである」とする姿勢だ。この“宇宙覇権”の前哨として位置づけられるのが、巨費を投じて進められているMDだろう。 MDは1980年代レーガン政権時のSDI(=戦略防衛構想)に起源を持つ。敵国から発射され弾道ミサイルを自国の迎撃ミサイルで撃ち落すシステムだが、ブースト(上昇)段階・ミッドコース(中間飛行)段階・ターミナル(最終)段階に応じて、地上・海上・空中・宇宙に迎撃兵器を配備するという「多層防衛」である点が特徴であり、米軍が宇宙・地球規模攻撃を行う際に、敵ミサイルによる応戦を封殺するための「盾」になるものだ。現在、かつてないほど緊密な日米一体の研究・開発・配備が進んでいて、日本が導入するシステムは、図のように、海を越えて飛んできたミサイルをまず海上配備のSM3が大気圏外で迎撃し、もし撃ち損じた場合は地上配備のPAC3が迎え撃つという二段構えになっている。昨年10月に嘉手納基地に初のPAC3(1発で5億円以上)、8月からSM3(1発20億円ほど)を搭載したイージス艦が横須賀基地に配備が始まっている(この3月には航空自衛隊入間基地(埼玉県)にもPAC3が配備される)。 この軍事化に刺激された反応とも解釈できるのが、1月12日に中国が実施した自国の人工衛星を弾道ミサイルで攻撃し破壊するという実験だ。この臆面もない宇宙空間での兵器使用は、軍拡の新しい次元を意味するものかもしれない。かつてのSDIと同様、アニメーションばりのMDが技術的に本当に機能するのかは多くの専門家が疑問視しているが、それが存続する以上、「防衛」の名の下での軍拡の進行は避けられそうもない。 MDに必要な軍事衛星を持たない日本は、敵国のミサイル発射の情報は米国に頼る他なく、海上自衛隊のイージス艦が捕捉したミサイル情報も米国に提供することになる。軍事一体化が不可避のシステムであるMDは、その開発においても、三菱重工がPAC3のライセンス生産を開始するなど、一部の大企業が紛うべくもない軍需化に突き進んでいる。米国のシンクタンク「ランド研究所」は日本への導入で最大5兆9千億円もの経費がかかると見込んでいるが、この途方もない規模の税金の投入で誰がうまい汁を吸うことになるのかを、私たちは見抜かねばならない。 1967年の国際的な宇宙条約とそれを受けての1969年の我が国の平和利用決議(「宇宙の開発および利用は平和の目的のために限り」(衆議院決議)「かつ自主・民主・公開・国際協力の原則の下にこれを行う」(参議院付帯決議))が理念と現実の両方から、今崩されようとしている。■
図はhttp://www5.hokkaido-np.co.jp/motto/20060805/ 2007年1月に発行された「市民科学」の第1号 衛星放送用巨大送信アンテナ群が マンション密集地域に出現か 〜アンテナ建設の差し止めを求めて住民たちがスカイパーフェクトを提訴〜 予防原則や企業の社会的責任の面からも注目を 上田昌文
あなたの住まいの目の前に、衛星放送用の巨大な送信アンテナがいきなり立つとしたら、あなたはどうするだろう?
道行く人々の誰もが携帯電話で電波を飛ばし(全国で約9800万人が使用)、マンションやビルの屋上に携帯基地局アンテナが乱立する(全国で約11万基が稼働)なかで、私たちはおそらく電波を使うことに次第に鈍感になってきているのかもしれないが、さすがに自宅の目の前に、基地局や巨大アンテナが立つとしたら、気がかりだろう。「あれは一体何だろう? 電波を出すらしいが、身体に悪い影響を与えはしないのだろうか?」……事前にほとんど説明らしい説明もなしに、建設の開始が告げられたりすれば、居住する者としての権利を無視されたと感じ、24時間放射されるだろう電波に不安が高まるのも当然だと言える。 2007年1月から発行の「市民科学」の第1号 |
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